第七話 夜のティーカップ
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、そして、驚くほどわがままな女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
⸻
夜の鹿鳴館は静かだ。
廊下の電灯は落とされ、
木の床だけが時折、
温度差で小さく鳴る。
だがその夜――
一階ラウンジで、
小さな音がしていた。
……カタ。
……カタ。
円卓の上のティーカップが、
月明かりの中で
わずかに揺れている。
誰も触れていない。
風もない。
それでも、
カップは呼吸するように震えていた。
(浅いわね)
ジョセフィーヌは
ソファーの背からそれを見下ろす。
耳だけが、
暗闇の音を拾っている。
(これは建物の揺れではない)
鹿鳴館は古い。
床はきしみ、
配管は唸る。
だがこの震えは違う。
(残された時間の震え)
飲み干されなかった紅茶。
言われなかった言葉。
そういうものは、
意外と重い。
そのとき。
廊下から足音がした。
重く、少し眠そうで、
そしてだいたい迷っている足音。
「うわっ!」
懐中電灯の光が、
壁を照らし、天井を照らし、
そしてようやく床を照らした。
「ジョセ、そこにいたのか。びっくりするなあ」
(“フィーヌ”までが私よ)
無言で足を鳴らす。
「はいはい、ジョセフィーヌ様」
分かればよろしい。
「なんかラウンジで音がしてさ」
佐伯はテーブルに近づき――
次の瞬間、
盛大に躓いた。
「痛っ!」
懐中電灯がテーブル脚にぶつかり、
クロスが引っ張られ、
ティーカップがぐらりと傾く。
(……この男は)
静かに歩くという
概念がないのだろうか。
「あ、危ない!」
佐伯は慌てて手を伸ばす。
だが掴んだのは、
カップではなく、
テーブルクロスだった。
勢いよくめくれ上がる布。
そして――
床に、
一通の封筒が落ちた。
古びた封筒。
テーブルの天板と脚の間に、
長い間挟まっていたらしい。
ジョセフィーヌは近づく。
封筒から漂う匂い。
(……茶葉)
そして、
わずかな涙。
表には掠れた文字。
『今夜、一緒に紅茶を。
話したいことがあるの。』
その瞬間。
ラウンジに残っていた
あの小さな震えが、
ふっと消えた。
⸻
翌朝。
ラウンジには
一人の老紳士が座っていた。
「……これを探していたんです」
佐伯が差し出した封筒を、
老人は両手で受け取る。
「亡くなった妻がね。
書きかけていた招待状です」
ゆっくりと封をなぞる。
「喧嘩をしたままでね」
静かな声。
「彼女の紅茶をね」
老紳士は、少し笑った。
「一度も“美味しい”って
言わなかったんです」
佐伯が淹れた紅茶を、
老人は一口飲んだ。
しばらくカップを見つめてから
静かに言った。
「……これでようやく
返事ができそうです」
⸻
管理人室。
朝の光が
窓から差し込んでいる。
「いやあ」
佐伯は頭をかいた。
「僕が転ばなかったら
見つからなかったかもな」
(……違うわ)
ジョセフィーヌは
窓辺に跳び乗る。
(導いたのは私よ)
もっとも、
それを言っても
この男は理解しない。
「はいはい、ジョセフィーヌ様」
佐伯が小皿を差し出す。
「昨日のお詫び」
皿の上。
ドライいちご。
(…………)
女王の耳が
ぴくりと立つ。
甘い香り。
高貴なる自尊心が
かすかに揺れる。
(ふん)
ゆっくりと近づく。
(管理人の不始末を
私が受け止めてあげるだけよ)
そして一口。
――サクサクサク。
ひげが激しく震える。
「やっぱり甘いのには勝てないか」
(五月蝿いわね)
ジョセフィーヌは
顔を上げる。
(不敬を許すと言ったでしょう)
⸻
昨夜のカップは、
誰かの返事を待っていた。
鹿鳴館に残るのは、
形のない想い。
それはときどき、
ティーカップを揺らす。
そしてそれを解くのは――
言うまでもなく、
女王である。




