第六話 女王、食材にされる? 〜マカロンを求めた男の奇跡〜
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、そして、驚くほどわがままな女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
今夜の鹿鳴館は、珍しく華やいでいた。
シャンデリアの光が踊る大広間。その喧騒の影を、一羽の白い影が音もなく移動していく。
「……美しい。素晴らしい、純白の毛並みだ」
背後からかかった声に、ジョセフィーヌは足を止め、鼻を高く鳴らした。
(ふん、当然だわ。この気品、隠しようもないもの。ひざまずいて讃えるがいいわ、人間)
「ほう。これは珍しい『食用種』ですな。実に肉付きが良い」
(…………は?)
ジョセフィーヌの耳が、怒りで垂直にピンと立った。
「おい、籠を持ってこい! 今夜のメインディッシュに最高だぞ!」
(何ですって!? この無礼者が! 私を……この女王陛下を、咀嚼の対象だと言ったのかしら!?)
女王、まさかの「高級食材」扱い。
ドレスの裾をかすめ、籠を手にした給仕たちが追いかけてくる。
(寄るな! その手をどけなさい!)
必死の逃走。
その最中、彼女の優れた嗅覚が、給仕の運ぶシャンパンタワーから「異臭」を捉えた。
(……毒!?)
その瞬間、物陰から鋭い視線が飛んだ。
「……チッ、嗅ぎつけられたか。あのウサギ、仕留めろ」
尊厳の危機は、一瞬にして命の危機へと跳ね上がった。
その頃。
「あ、マカロン落とした……」
大広間の隅で、佐伯は絶望していた。
「これ、さっきから狙ってたやつなのに。三秒ルール、三秒……!」
佐伯が床のマカロンに向かって深く屈み込んだ、その瞬間。
――ヒュッ!
頭上を捕獲網が通り過ぎ、勢い余って背後の刺客に絡みついた。
「え? 何、今の音……わわっ、滑る!」
床のワックスか、あるいは「何か」のせいで、佐伯の足が不自然に左へ持っていかれた。
よろめいた佐伯の体が、巨大なシャンパンタワーへと激突する。
「うわあああああ!」
ガシャアアアアアン!!
凄まじい音と共に、クリスタルがドミノ倒しに崩れていく。
それは、毒を盛った主犯の退路を、まるで測ったかのように完璧に塞ぎ、逃走中の彼の頭上に――あろうことか「毒入りグラス」だけを避けて降り注いだ。
「な、なんだと!? あの男、転びながらタワーの崩落角を計算したのか!?」
「まさか、最初から俺たちの位置を……!?」
「え、マカロン……マカロンがシャンパンまみれに……」
膝をついて嘆く佐伯に、追い打ちをかけるように別の刺客が迫る。
「あ、ジョセ〜! 危ない! 耳が濡れちゃうよ!」
佐伯が慌てて振り回したハンカチが、背後から飛びかかろうとした刺客の顔面にジャストフィットした。
視界を奪われた男は、そのまま盛大に転倒した。
静寂が訪れる。
ジョセフィーヌは、乱れた毛並みを優雅に一撫ですると、鼻先を鳴らした。
(……遅いのよ、この木偶の坊。……まあ、少しは役に立ったけれど)
「……え?」
「今の状況、僕のせいじゃないよね?」
事件後。
会場の責任者として事後処理にあたっていた松下――かつて二〇二号室で虚栄心に振り回されていた彼女――は、歪んだ床板を見つめて独りごちた。
「……そうか。あの男、あんなに溜め込んでいたのか」
「長年の不満、評価への焦り……。犯人の、言葉にならなかった想いが、床を数ミリ沈ませていたのね」
佐伯が不自然に転んだのは、その沈み込みに足を取られたからだ。
そして、タワーが犯人を狙って崩れたのは、その場所に溜まった負の感情が、物理的な重力さえも歪めていたから。
「誰にも届かない言葉が、まさかあんな形で彼を救うなんて……」
松下は、自嘲気味に、しかし以前よりも晴れやかな顔で息を吐いた。
その夜。
管理人室では、ジョセフィーヌが贅沢にりんごを頬張っていた。
(……仕方ありませんね。これは“報告書作成の対価”として、女王が受け取っておいてあげますわ)
「はいはい。っていうかさ、あの時、本当にわざと転んだわけじゃないからね? あ、そのりんご、僕の分も……あ、もうない」
佐伯は、もうマカロンの無念すら忘れて笑っている。
だが、ジョセフィーヌはふと、咀嚼を止めた。
――ギギッ。
足元の、さらに奥。
今夜の事件とは違う、もっと古く、もっと重い「未完了」の軋み。
(……まだ、いるのね。この下に。もっと大きな“未完了”が)
ジョセフィーヌだけが、静かに耳を伏せる。
佐伯の能天気な鼻歌の裏で、館はまた、静かに歪みを深めていた。




