第四話 鳴り止まないオルゴールと、眠れない住人
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、そして、驚くほどわがままな女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
鹿鳴館の夜は、沈黙でできているわけではない。
建物の骨組みが軋む音、遠い配管を流れる水の音、そして――届くはずのない、過去の残響。
(今夜も、始まったわね)
ジョセフィーヌはケージの中で耳を垂直に立てた。
干し草を一口くわえたまま、ぴたりと動きを止める。
キィ、キィ、と、錆びついたゼンマイが回るような、不快な高音が二階から降りてくる。
もぐ。
干し草を飲み込むのは、音が途切れてからにした。
⸻
翌朝。
管理人室のドアを激しく叩いたのは、先月越してきたばかりの若い女、瀬戸だった。
「佐伯さん! もう限界です! 夜中にオルゴールが鳴り止まないんです!」
目の下に色濃い隈を作った瀬戸は、震える手で小さな木箱をカウンターに置いた。
「オルゴール? うち、楽器禁止ですよ」
佐伯は寝癖のついた頭をかきながら、無造作にその箱を手に取る。
「違うんです! これ、リサイクルショップで『動かないジャンク品』として買ったインテリアなのに、夜になると勝手に鳴り出すんです。でも、隣の部屋の人には聞こえないって……」
佐伯は蓋を開け、指で円筒を回そうとしたが、びくともしない。
「壊れてますね。ネジも巻けないし、音なんて鳴りようがない。気のせいじゃないですか?」
(この男の脳細胞は、きっと綿飴でできているのだわ)
ジョセフィーヌは鼻を鳴らし、瀬戸の足元へ近寄った。
(……香る。これは、焦燥の匂い)
ついでに、昨夜のインスタントラーメンの匂いもする。
瀬戸の体からは、不眠による疲労だけでなく、何かを「追いかけなければならない」という強迫観念のような、ひりついた気配が漂っていた。
⸻
その日の深夜。
佐伯は管理人室のソファで、口を開けて爆睡している。
机の上に置かれた、あの動かないはずのオルゴール。
月光がその木箱を照らした瞬間。
――ポーン。
一音。水滴が落ちるような音が、静寂を裂いた。
続いて、狂ったようなテンポで、不協和音が溢れ出す。
(重いわね)
ジョセフィーヌは一度、前足をすぼめた。夜は冷える。
オルゴールの周囲の空気が、じっとりと澱んでいるのがわかる。
古い木材と、乾いた金属の匂い。
それに混じって――微かに、人の匂いがした。
長く、横たわっていた者の匂い。
眠りを拒み続けた者の、浅い呼吸の残り香。
ジョセフィーヌは、今朝、瀬戸の足元で嗅いだ匂いを思い出す。
(……似ている)
眠りたい者と、眠るのが怖い者。
そのどちらもが、この箱の前で、同じ夜を過ごしたのかもしれない。
(人間は、ときどき)
(“終わったあと”のほうが、長く居座る)
ジョセフィーヌは、眠りこける佐伯の足元を力いっぱい蹴飛ばした。
「痛っ!? なんだよジョセ、地震か?」
(起きなさい、この木偶の坊。仕事よ)
ジョセフィーヌは、オルゴールの箱の底にある、小さな亀裂を前足で示した。
「……ん? あぁ、ここ、何かが挟まってるな」
佐伯がピンセットで引き抜いたのは、一枚の古びた、丸まった紙屑だった。
そこには、震える文字でこう記されていた。
『もう、いい。おやすみなさい』
その紙が抜かれた瞬間、オルゴールの不快な音は、嘘のように止まった。
⸻
翌日、瀬戸はすっきりとした顔でオルゴールを佐伯に預け、去っていった。
「モノに想いが宿る、か。鹿鳴館自体が、そういうのを集めちゃう性質なのかもな」
佐伯は珍しく神妙な面持ちで、棚の奥にそのオルゴールを片付けた。
「でもまあ、ゆっくり眠れるようになったなら、それでいいか」
佐伯は鼻歌まじりに、ご褒美の「極太の乾燥チモシー」をジョセフィーヌに差し出す。
(……太いわね)
一瞬ためらったが、三秒後には忘れた。
(ふん、場所だけじゃない。モノも、人も、この館の一部というわけね)
ジョセフィーヌはチモシーを咀嚼しながら、棚の奥を見つめた。
管理人室の棚に置かれた、あのオルゴール。
蓋は閉じられ、ゼンマイも巻かれていない。
だが。
ほんの一瞬。
ジョセフィーヌの耳にだけ、音にならない震えが届いた。
それはまるで、床下のどこかで誰かが静かに寝返りを打ったような――
館そのものが、わずかに重くなった音だった。
佐伯は、気づかない。
――だが女王は、確かに聞いた。
鹿鳴館の意思が、また一つ、深まったことを。




