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女王様うさぎジョセフィーヌの鹿鳴館事件簿【高貴なうさぎが、人間の嘘を暴く。異色のうさぎミステリー】  作者: 月森 いと


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第三話 鏡の中の住人と、消えた香水の香り

 この館では、ときどき不可解なことが起きる。


 夜中に鳴るはずのない呼び鈴。

 誰もいない廊下を横切る気配。

 閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。


 けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。


 鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。


 言えなかった言葉。

 渡せなかった想い。

 途中で途切れた、誰かの「未完了」。


 もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。


 白く、気高く、そして、驚くほどわがままな女王陛下。

 名を、ジョセフィーヌ。


「ジョセ〜。おやつだよー」


「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」


 ……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。


 これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。


 鹿鳴館の二階には、開かずの間がある。


 かつてダンスホールだったその場所は、今は重い観音開きの扉で閉ざされ、住人たちの間では「幽霊が出る」と囁かれていた。


(幽霊? 失礼しちゃうわね)


 ジョセフィーヌは、扉の隙間から漏れ出す空気を嗅ぐ。


(霊体に、これほど濃厚なバラの香水が使えるかしら?)


 ツンと鼻を突く、熟成された甘い香り。


 だが、その香りは一瞬で消え、代わりに埃っぽいカビの匂いが支配する。


 と……と……。


 まただ。第一話で聞いた、あの「もう一人」の足音。


 それは扉の向こう側で、確かにステップを刻んでいた。



「ジョセー、どこ行ったんだよ」


(“フィーヌ”までが私よ、この無礼者)


 管理人室から、緊張感のない声が響く。


 佐伯が、使い古された真鍮の鍵束をジャラジャラと鳴らしながら階段を上がってきた。


 ジョセフィーヌは、無言で前足を――ダン、と一度鳴らす。


「はいはい、ジョセフィーヌ様」


(最初からそう呼びなさい)


「あ、そこ開けちゃダメだよ。建付けが悪くて、一度閉まったら外からじゃ開かないんだから」


(それを直すのが管理人の仕事でしょうに)


 ジョセフィーヌは、佐伯の足元をすり抜け、開いたばかりの扉の隙間からホールへと滑り込んだ。


「あ! 待てよジョセ!」


 慌てて追いかけてきた佐伯が踏み込んだ瞬間、


 ガチャン、という重い音と共に、扉が閉まった。


「……あ。閉まった」


(……この役立たず)



 月明かりだけが差し込む、広大なダンスホール。


 壁一面に設えられた巨大な姿鏡が、二人の影を歪んで映し出す。


「暗いな……。おまけに、なんか変な匂いしないか?」


 佐伯が鼻をすする。


 彼は持っていた熱い紅茶のカップ(なぜ仕事中に持ち歩くのか)を、近くの古びたコンソールテーブルに置いた。


 その時だ。


 ――カツン。


 鏡の奥から、硬い靴音が響いた。


「ひっ……!」


 佐伯が飛び上がる。その拍子に、彼は置いていたカップを派手にひっくり返した。


 熱い紅茶が、床の寄木細工パーケットの隙間に吸い込まれていく。


 月明かりの中で、鏡に映る佐伯の姿が、一瞬だけ“遅れて”動いた。


(……待って。そこよ)


 ジョセフィーヌは、紅茶が染み込んでいく「床の継ぎ目」を凝視した。


 普通の床なら、紅茶は表面に広がるはずだ。


 だが、その液体は不自然なほど速く、特定の「線」に沿って消えていく。


(吸い込まれているのではない。下に空間があるのよ)


 ジョセフィーヌは、紅茶が消えた場所を前足で激しく叩いた(スタンピング)。


「ジョセ? 火傷したのか? あー、拭かなきゃ……」


 佐伯がボロ布で床を拭こうと、体重をかけて膝をついた。


 その瞬間、「カチリ」という乾いた音がホールに響く。


 鏡の一部が、隠し扉のようにゆっくりと回転を始めた。



 鏡の裏側。


 そこには、小さな隠し小部屋があった。


 置かれていたのは、一瓶の香水と、一足の古いダンスシューズ。


 そして、誰かが最近までそこにいた証拠――


 脱ぎ捨てられたばかりの、現代的なスニーカー。


「……これ、三階の桐野さんのじゃないか?」


 佐伯が呆然と呟く。


(第一話の、シュガーポットの女ね)


 彼女は、祖母がかつてこの場所で踊っていたという思い出に執着し、夜な夜なここに忍び込んでは、鏡の前で一人、かつてのステップを再現していたのだ。


 「もう一人の足音」の正体は、過去を懐かしむ住人の、あまりに孤独なダンスだった。




翌朝。


 鏡の扉には「立入禁止」のテープが貼られ(佐伯が珍しく仕事をした)、ホールには消臭剤の匂いが漂っている。


 管理人室で、ジョセフィーヌは窓辺に座っていた。


(秘密を共有することで、館の秩序は保たれる)


 桐野は、佐伯に「見逃してほしい」と泣いて頼んだらしい。


 佐伯は「掃除してくれるならいいですよ」と、相変わらずの調子で引き受けたという。


「なあ、ジョセ」


(……“フィーヌ”よ。何度言えばその貧相な記憶力に刻まれるのかしら)


 ジョセフィーヌは、今度は視線だけで射抜く。


 佐伯はまったく気づかない。


 彼は乾燥させたパセリを一枝、差し出してきた。


「お前が床を叩かなきゃ、あの隠しギミック、一生気づかなかったよ。はい、お手柄のご褒美」


 ジョセフィーヌは、ふい、と顔を背ける。


 だが。


 鼻先をくすぐる乾燥パセリの芳醇な香りは、昨夜のバラの香水よりも、ずっと強く、ずっと直接的に女王の理性を揺さぶる。


(ふん……)


(この男の無能を補うのは、女王たる私の義務)


(これは正当な報酬。決して、餌に釣られたわけではないわ)


 一拍。


 さらに一拍。


 ジョセフィーヌは、ゆっくりとあごを引き、あくまで“仕方なく”という体で前へ出る。


 そして、優雅な所作でパセリを口に含んだ。


 ――ムシャムシャ。


 次の瞬間、口が高速で動いている。


 優雅さは、消滅した。


 ひげが細かく震え、耳がぴんと立つ。


 後ろ足が、わずかに跳ねる。


「やっぱり甘いのには勝てないか」


(甘くはないわ、青いわよ)


 佐伯は満足げに笑いながら、また書類の山を崩している。


(……不敬は許す)


(今日だけは)


 鹿鳴館の夜は、まだ長い。


 そして、この「役立たず」の管理人が、次にどの扉を(うっかり)開けるのか。


 それを見届けるのは、やはり――


 女王である。


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