第二話 消えた手紙と開かずの郵便受け
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、そして、驚くほどわがままな女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
夜の廊下に、重い足音が響く。
と……と……。
(昨日と同じ)
ジョセフィーヌは耳を伏せた。
浅い呼吸。
吸って、止まり、長く吐く。
(期待と、落胆。待つ者の呼吸だわ)
三階の突き当たり。
偏屈で有名な老人・水越は、今日も古い郵便受けを覗き込んでいた。
「……来ない」
低い声。
だが瞳孔は、わずかに開いている。
(諦めてはいない)
(人間は、諦めるのが下手な生き物ね)
⸻
翌朝。
管理人室で佐伯が、使い古された工具箱をひっくり返している。
「あー、あの三階の郵便受けさ」
「昔壊れて、中身が取り出せなくなってたんだよね」
(出たわね、無責任発言)
ジョセフィーヌは鼻を鳴らす。
(この男は、私という最高のアドバイザーがいなければ)
(七日と持たず、この館を廃墟にするだろう)
鍵はなくす。
回覧板は逆に回す。
だが今回は、それ以上だ。
床に舞い落ちた埃の向こう。
壁の裾にある細い木の板――
人間が「巾木」と呼ぶ隙間に、
紙の繊維が絡んでいる。
(上からでは見えぬ)
(愚かな人間にはね)
女王の視界は、常に床から数センチにある。
ジョセフィーヌは隙間へ、鼻先を差し入れた。
乾いた紙の匂い。
古い糊。
微かなインク。
管理人室の隅。
壁に埋め込まれた郵便受けの裏側。
建物の歪みで板が浮き、その奥に――
こぼれ落ちた封筒が、数通眠っていた。
「……なんだこれ」
佐伯が引き抜いた束の中に、
一通だけ、黄ばんだ封筒があった。
消印は、数十年前。
宛名は、水越。
(あの震えだわ)
昨夜見た、老人の手の震え。
それとよく似た、ためらいの跡が、文字の端々に残っている。
何度も書き直され、
出されることなく、
ようやく投函された言葉。
そして――
長い時間、届くことを許されなかった言葉。
待っていた者の季節だけが過ぎていくあいだ、
この手紙は、誰にも読まれぬまま、そこに在り続けたのだ。
ジョセフィーヌは確信する。
それは“届かなかった”のではなく、
“閉じ込められていた”時間だ。
⸻
水越の部屋。
封筒を差し出す佐伯の横で、
ジョセフィーヌは老人の呼吸を聞く。
止まる。
吸う。
震える。
封を切る指が、白い。
「……ばかだな」
老人が笑った。
目尻から、一筋。
涙が落ちる。
待っていたのは、謝罪だった。
若い日の友からの、
あまりに遅すぎた言葉。
⸻
廊下を戻りながら、
佐伯が頭をかく。
「もっと早く直しときゃよかったな」
「あんな顔されたら、管理人の面目丸つぶれだ」
(本当にそうだわ)
(猛省しなさい)
だが時折、この男は正しい場所に立つ。
⸻
管理人室に戻ると、
カサリと音がした。
「ほら、ジョセフィーヌ様」
「お手柄のご褒美です」
小皿に、
特製のドライりんご。
(……当然の献上物よ)
ジョセフィーヌは、あえて視線を外す。
女王が褒賞ごときに浮かれるなど、
あってはならない。
――だが。
耳が、ぴん、と立つ。
ひげが、細かく震える。
後ろ足が、
期待で、半歩跳ねる。
佐伯はそれに気づかず、
のんきに笑っている。
「やっぱり、甘いのには勝てないか」
(……今日だけは不敬を許してあげるわ)
鹿鳴館は古い。
だが、
忘れられた想いまで、
朽ちさせるわけにはいかない。
それを守るのは――
この館で、ただ一人。
女王である。
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