第十六話:無限の悲しみの奔流
キリアンは川岸から一定の距離をとり、周囲に強力な結界を張った。もしカレンが無限の悲しみに耐えきれず暴走すれば、この地域一帯の物語が、虚無へと飲み込まれてしまうからだ。
カレンは、黒い川の水面に手を伸ばした。
「始めます、キリアン」
水に触れた瞬間、カレンの虚無の力が、堰を切ったように川の悲しみの物語を吸い上げ始めた。
前回のアウレリウスの時のような、視覚的な記憶ではない。今回は、純粋な感情の奔流だった。それは個人の悲しみではなく、人類の集合的な悲嘆。失われた愛、裏切り、満たされない欲望、そして生きていく上でのすべての苦痛が、津波のようにカレンの精神に押し寄せた。
「うあああ……ン!」
カレンは、生まれて初めて、意識を保つことが困難なほどの苦痛に襲われた。
キリアンは結界の外から、必死にカレンに語りかけた。
「カレン!目を閉じろ!君自身の物語を思い出せ!君は呪いを解くために、創造者になるために旅をしている!君の希望が、この悲しみを上書きする!」
カレンは悲嘆の奔流の中で、キリアンの声を遠い光のように感じた。彼女は森の時のようにパニックに陥ることはなかった。訓練で得た『境界線』の意識を、最後の砦として維持しようとした。
彼女は自身の虚無の力の出力を、極限まで細かく制御することを試みた。
吸収しすぎれば自滅する。 吸収が遅すぎれば川の悲しみに心が侵食される。
カレンは、吸収と制御の間の、極めて繊細なバランスを意識的に保ち始めた。彼女は感情の奔流から、純粋な『悲しみのエネルギー』だけを抽出し『物語』の残滓を、川の底にゆっくりと沈めていく。
それはまるで激流の中で、泥水から純粋な水分子だけを取り出す、奇跡的な作業だった。
数時間後、川の黒い水面がゆっくりと光を帯び始めた。水は底の砂利が見えるほどに透き通っていく。そして川の澱んでいた流れが、生命を取り戻したかのように、サラサラと音を立てて流れ始めた。
川の悲しみの物語は、無限の集合体であったにもかかわらず、カレンの細やかな制御によって、すべてが虚無へと変えられた。
カレンは、力を解放した。その瞬間、川の底から、清らかな水草が芽吹き、透明な水面で小さな魚が跳ねた。
川は『人々の悲しみを洗い流す清流』という、新しい物語を得たのだ。
カレンは川岸に倒れ込んだ。
彼女の心には、前回のような深い虚無はなかった。その代わりに、疲労と、達成感、そして、僅かな安堵の感情が残っていた。
「キリアン……私、できた」
彼女は初めて、自分の能力を意図的に完璧に制御できたという、確かな創造の喜びを感じていた。




