第一話:虚無の芽生え
世界には、物語が息づいている。
木々のざわめきには森の精霊の囁きがあり、小川のせせらぎには恋する若者の歌が宿る。
パン屋の焼きたてのパンには、寡黙な職人の情熱と、彼を支える家族の絆の物語が香る。
誰もが生まれながらにして、自分だけの物語を紡ぎ、同時に世界を彩る無数の物語の織物の一部だった。
それは、魔法と呼ばれ、生命そのものだった。
カレンもまた、そんな世界に生まれた。
柔らかな産声が世界に響いたあの日、両親はさぞかし喜んだことだろう。しかし、その喜びは、長くは続かなかった。
カレンが泣けば、隣に飾られた英雄の叙事詩がページから文字を失い、白紙の紙切れになった。
カレンが笑えば、揺りかごに飾られた子守歌が音の記憶をなくし、ただの無意味な音の羅列と化した。
彼女の周囲で、『物語』は次々と命を失っていった。まるで、太陽が昇れば闇が消えるように、カレンという存在があるだけで、そこに息づくはずの物語が、『虚無』へと変貌していくのだ。
医者は首を傾げ、賢者は書物を漁った。しかし、誰もその現象を説明できなかった。ただ一つ、共通していたのは、それがカレンの意思とは全く無関係に起きているということだった。
彼女自身は、無邪気な瞳で世界を見つめる、普通の赤ん坊に過ぎない。
成長するにつれ、その能力はより明確になった。
彼女が触れた絵本は、登場人物の背景も、冒険の結末も失い、意味不明な挿絵の集合体となった。
彼女が歩いた場所の言い伝えは、人々から忘れ去られ、ただの風景の一部と化した。
人々はカレンを恐れ、避け始めた。彼女に悪意などない。ただそこにいるだけで、世界の魔法が、生命の物語が、まるで病のように蝕まれていくのだから。
カレンは知っていた。自分が周囲から孤立していく理由を。
七歳の誕生日。誰からも祝われることのない、静かな一日だった。
彼女は、窓の外を流れる雲をただ見上げていた。
あの雲にも、どこか遠い場所へと旅する旅人の物語が宿っているのだろうか。そして、その物語も、いずれ自分によって虚無へと変わるのだろうか。
「私は、物語を壊す者」
誰もいない部屋で、カレンはそっと呟いた。
その声には、悲しみと、そして拭い去れない孤独が宿っていた。
この世界で、自分だけが、物語を持たずに生きていく。
そんな絶望的な物語を、彼女自身が紡いでいることを、まだ知らずに。




