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第8話 一万人の家族と、父の御守り

 週が明け、月曜日の夜。

 西新宿のタワーマンションの一室は、数週間前までの、息が詰まるような静寂が嘘のように、穏やかで、そしてどこまでも温かい光に満ちていた。

 佐藤結菜の部屋。その主である彼女は、ベッドの上でクッションを抱きしめながら、スマートフォンの画面に映し出された、一つのトーク画面を眺めて、ふふっと、幸せそうな笑みを浮かべていた。


 画面に表示されているのは、彼女がこの数週間で手に入れた、かけがえのない宝物の一つ。

 シスター・リリィとの、LINEのトーク履歴だった。


 リリィ: しずくさん、こんばんはー…

 リリィ: この時間になると、お腹がすきますね…

 結菜: リリィさん、こんばんは!夕食は、もう食べましたか?

 リリィ: まだですー…。今から、カップラーメンにお湯を注ぐという、聖なる儀式を執り行うところです…

 結菜: だめですよ、そんなの!ちゃんとしたもの食べないと!

 リリィ: えー…でも、面倒くさいですし…


 その、あまりにもマイペースな、そしてどこまでも彼女らしい返信。

 結菜は、くすくすと笑いながら、返信を打ち込んだ。


 結菜: 今度、私のスキルで、温かいご飯を作ってあげますね!

 リリィ: !

 リリィ: 神ですか…?しずくさんは、神様だったのですね…

 リリィ: 結婚してください…

 結菜: も、もう!からかわないでください!


 その、あまりにも他愛のない、しかしどこまでも心温まるやり取り。

 数週間前まで、結菜の世界は、この小さな部屋の中だけで完結していた。だが、今は違う。画面の向こう側に、確かに自分と心を通わせ、笑い合ってくれる「友達」がいる。

 その事実が、彼女の心を、これ以上ないほどの幸福感で満たしていた。


 彼女は、トーク画面を閉じると、今度は自らのVTuberアカウントの管理画面を開いた。

 そこに表示された数字に、彼女は再び、息を呑んだ。


【配信サイト・チャンネル登録者数:10,582人】

【Xアカウント・フォロワー数:11,029人】


 一万人。

 その、あまりにも大きな数字。

 数週間前まで、50人という、クラスの半分にも満たない数字の前で絶望していた自分が、嘘のようだ。

 彼女は、その数字を、指先でそっと撫でた。

 一人、また一人と、自分の物語を見つけ、そして応援してくれるようになった、大切な、大切な「家族」の数。


「…すごいなぁ…」


 彼女の口から、感嘆のため息が漏れた。

 ダンジョンに行って、本当に良かった。

 あの時、勇気を出して、最初の一歩を踏み出して、本当に良かった。

 彼女は、心の底から、そう思った。

 彼女の人生は、あの日を境に、完全に変わったのだ。


 その変化は、彼女の「日常」の配信にも、確かな輝きをもたらしていた。

 かつての彼女の配信は、どこか自信なさげで、おどおどとしていた。だが、今の彼女は違う。

 歌枠では、その美しい歌声に、確かな芯と、そして聴く者の心を揺さぶる「想い」が乗るようになった。

 ゲーム枠では、FPSで何度もやられながらも、「くやしー!」と笑いながら、リスナーからのアドバイスを素直に聞き入れ、そして共に勝利を目指す、そのひたむきな姿が、多くの人々の心を掴んだ。

 雑談枠では、もはや彼女は一人ではなかった。

 彼女の隣には、常に小さな神の使い…コマさんがいて、その尊大な、しかしどこか憎めないツッコミで、彼女の少しぎこちないトークを、最高のエンターテイメントへと昇華させていた。

 そして、その結果として。

 彼女の配信の同時接続者数は、今や5000人前後で安定するようになっていた。

 それは、ナロウライブやカクヨムライブのトップVTuberたちと比べれば、まだ小さな数字かもしれない。

 だが、彼女にとっては、世界の何よりも大きく、そして尊い数字だった。

 彼女は、その5000人の「家族」と共に笑い、共に悩み、そして共に、成長していた。


 ◇


「――というわけで!」

 その日の夜の雑談配信。

 結菜は、その日のメインテーマを、最高の笑顔で、発表した。

「次の、ダンジョン配信の行き先を、決めたいと思います!」

 その一言に、コメント欄が、爆発した。


 きたあああああああ!

 待ってました!

 次は、どこに行くんだ!?


 結菜は、ARウィンドウに、ギルドが公開しているダンジョンマップを表示させた。

 そして、彼女はその中から、一つの、禍々しい蛇の紋様が描かれた場所を、指し示した。


「次の目標は、ここです!E級ダンジョン、【毒蛇(どくじゃ)巣窟(そうくつ)】!」


 その、あまりにも挑戦的な宣言。

 それに、コメント欄の空気が、一瞬で変わった。

 それまでの、和やかな雰囲気ではない。

 純粋な、心配と、そして驚愕。


 え!?

 毒蛇の巣窟!?マジかよ!

 あそこ、E級の中でもトップクラスに厄介だぞ!

 毒ヤバいけど大丈夫?

 混沌ダメージは、耐性ないと即死するぞ!しずくちゃん、まだレベルも低いのに、無謀だって!


 その、あまりにも当然な、そしてどこまでも彼女を心配するが故の、温かいコメントの嵐。

 それに、結菜はふふっと、楽しそうに笑った。

 そして彼女は、その全てを安心させるかのように、一つの「御守り」を、インベントリから取り出した。

 それは、紫水晶アメジストを削り出して作られたかのような、美しい、そしてどこか神聖な輝きを放つ、小さなフラスコだった。


「皆さん、心配してくれて、ありがとうございます」

 彼女の声は、どこまでも穏やかで、そして自信に満ちていた。

「でも、大丈夫です。私には、これがありますから」

 彼女が、そのフラスコの詳細な情報を、配信画面に表示させる。

 そのテキストを見た瞬間、コメント欄の有識者たちが、息を呑んだ。


【アメジストのフラスコ】

 効果: 使用後6秒間、混沌耐性が35%上昇する。


 は!?

 アメジストのフラスコ!?


 その、あまりにも当然な疑問。

 それに、結菜は、少しだけ照れくさそうに、そしてどこまでも誇らしげに、答えた。

「これは、お父さんがくれたんです」

 彼女の脳裏に、数日前の、父との会話が蘇る。


 ◇


『――毒蛇の巣窟、か』

 夕食の後、リビングのソファで新聞を読んでいた父、健一は、娘の次の挑戦の目標を聞くと、その鋭い瞳を、わずかに細めた。

『面白い選択だ。だが、あそこは危険だぞ。混沌ダメージは、物理防御も、元素耐性も、全て無視する。お前の、その【(ほのお)(ころも)】の防御力も、意味をなさない』

「は、はい…」

 結菜は、そのあまりにも的確な指摘に、少しだけ気圧された。

 だが、健一は、その言葉を、穏やかな笑みで続けた。

『だが、対策がないわけじゃない』

 彼は、そう言うと、自らのインベントリから、一つの紫色のフラスコを取り出した。

『これを持って行け。アメジストのフラスコだ。俺が、昔使っていたものだがな。これさえあれば、E級の毒など、ただの少しピリ辛なスパイス程度にしか感じんだろう』

「お父さん…!」

『いいか、結菜』

 健一は、そのフラスコを娘の手に握らせると、その大きな、そしてどこまでも温かい掌で、彼女の頭を、優しく撫でた。

『ダンジョンは、戦場だ。だが、戦場で最も重要なのは、勇気ではない。準備だ。常に、最悪を想定し、そのための備えを怠らないこと。それこそが、生き残るための、唯一の道だ。…分かったな?』

「…はい!」


 ◇


「――というわけで、万全です!」

 結菜は、そう言って、最高の笑顔で、カメラに向かってピースサインを決めてみせた。

 その、あまりにも頼もしい、そしてどこまでも愛らしい姿。

 それに、コメント欄は、安堵と、そしてそれ以上に大きな、賞賛の嵐に、完全に包まれた。


 それなら安心だ

 頑張って!

 お父さん、イケメンすぎるだろ…

 A級のパパとか、羨ましすぎる…


 その、温かい声援に、結菜は深々と頭を下げた。

「皆さん、ありがとうございます!次の配信は、明後日の土曜日、夜8時から!【毒蛇(どくじゃ)巣窟(そうくつ)】、絶対にクリアしてみせますので、応援よろしくお願いしますね!」


 彼女の、そのあまりにも力強い宣言。

 それが、彼女の、新たな冒険の始まりを告げる、ファンファーレとなった。

 彼女の心には、もはや不安の色はない。

 ただ、自らを支えてくれる、温かい家族と、そして何千という「家族」の応援。

 その、あまりにも大きな力を背に、彼女はただ、前だけを、見据えていた。

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