第7話 怠惰なる福音と、炎を纏う巫女
西新宿のタワーマンションの一室。佐藤結菜の部屋は、これまでにないほどの、甘い緊張感と、そしてどこまでも純粋な期待の香りに満ちていた。
彼女の目の前のPCモニターには、二分割された配信待機画面が表示されている。左側には、彼女のVTuberアバターである「神楽坂しずく」が、少しだけ硬い表情で正座している。そして、右側。そこには、漆黒の背景に、ただ静かに目を閉じている銀髪のシスター…カクヨムライブ所属、シスター・リリィのアバターが映し出されていた。
【配信タイトル:【初コラボ!】シスター・リリィさんと一緒に、ゴブリンさんにご挨拶してきます!】
【待機中の視聴者数:8,432人】
(…は、8000人…!?)
結菜は、そのあまりにも非現実的な数字に、ゴクリと喉を鳴らした。数週間前まで、同時接続者数が二桁に届けば御の字だった自分のチャンネルが、今や、これほどの注目を集めている。
これが、大手事務所に所属するトップVTuberの力。
そして、これが、SSS級ユニークスキルという「奇跡」がもたらした、一夜の熱狂。
彼女の心臓が、早鐘のように高鳴る。
『あと5分!』
『ドキドキが止まらない!』
『伝説の始まりを見に来たぜ!』
コメント欄を滝のように流れていく、期待に満ちた言葉。
その熱狂の中心で、結菜は深呼吸を一つすると、ヘッドセットのマイクを通じて、その歴史的なコラボの、最初の言葉を紡ぎ出した。
「あ、あの…リリィさん。聞こえますか…?」
『…んー…』
スピーカーから返ってきたのは、どこまでも眠たげな、そしてどこまでも可愛らしい、少女の声だった。
『…はい、聞こえてますよー…しずく、さん…』
「は、はい!今日は、よろしくお願いします!」
『こちらこそ…よろしく、お願いしますー…ふぁあ…』
画面の向こう側で、銀髪のシスターが、大きな欠伸を噛み殺した。
その、あまりにもマイペースな、そしてどこまでも大物感漂う挨拶。
それに、結菜の緊張が、ほんの少しだけ和らいだ。
そして、運命の時刻、午後9時。
配信が、始まった。
「皆さん、こんばんはー!神楽坂しずくです!」
「…シスター・リリィ、です…」
二人の、あまりにも対照的な挨拶。
それに、1万へと膨れ上がったコメント欄が、爆発した。
うおおおおおおおおお!始まった!
この二人、並んでるだけでてぇてぇが過ぎる…!
光と闇、勤勉と怠惰、最高のコンビじゃねえか!
「えーと、今日はですね、私の新しいビルドのお披露目も兼ねて、リリィさんと一緒に、F級ダンジョン【ゴブリンの巣】を、のんびりお散歩していこうと思います!」
結菜が、そう言って微笑んだ、その瞬間。
彼女の視界の隅で、小さな神の使いが、その小さな胸を張った。
「うむ!主よ、今こそ、お主の新たな力を、世界の愚民どもに見せつけてやる時である!」
コマさんの、その尊大な一声と共に。
結菜は、その魂に宿る、神の賽銭箱へと、祈りを捧げた。
彼女のミラクルポイントが、ごっそりと消費される。
そして、彼女の魂に、二つの、あまりにも強力な「奇跡」が、一時的に宿った。
[画像:古代樹の、苔むした分厚い樹皮のアイコン。その亀裂の隙間から、生命力を象徴するかのような、穏やかな翠色の光が漏れている。]
名前:
大樹の恩寵
(Grace of the Great Tree)
レアリティ:
ユニークスキル (等級:B)
種別:
パッシブスキル / 回復
効果テキスト:
このスキルを持つ者は、その魂に、古の大樹の生命力を宿す。
毎秒、500のHPを自動的に回復する。
この効果は、いかなる状況下においても阻害されることはない。
フレーバーテキスト:
千の嵐に打たれ、万の斧に傷つけられても、古の樹は決して倒れはしない。
その根は大地に深く張り、その枝は天へと伸び続ける。
真の強さとは、傷つかぬことではない。
傷つきながらも、何度でも立ち上がり、その場所に在り続けることだ。
その、静かなる魂の鼓動を、汝もまた受け継ぐがいい。
[画像:溶岩の中から生まれ出る、炎のように赤い鱗を持つサラマンダー(火蜥蜴)のアイコン。その瞳は、冷静な蒼い光を宿している。]
名前:
火蜥蜴の鱗衣
(Salamander's Scale-Mail)
レアリティ:
ユニークスキル (等級:B)
種別:
パッシブスキル / 防御
効果テキスト:
このスキルを持つ者は、その魂に、炎の中で生まれし伝説の生物の加護を宿す。
火耐性が+50%される。
さらに、火耐性の最大値が+5%される。
フレーバーテキスト:
愚者は炎に焼かれ、賢者は炎を避ける。
だが、真の王者は、炎の中を歩く。
万物を焼き尽くすはずの劫火は、彼らの肌を撫でる温かいマントとなり、その魂をより強く、より硬く鍛え上げる。
お前が纏うのは、ただの耐性ではない。
世界の理不尽(炎)そのものを、自らの鎧とする覚悟だ。
「――これが、私の新しい力です!」
彼女が、そう宣言した瞬間。
神楽坂しずくの、その雅な巫女装束が、まばゆい炎の光に包まれた。
光が収まった時。
そこに立っていたのは、もはやただの巫女ではない。
炎そのものを編み上げて作られたかのような、深紅と漆黒の、美しいゴシックドレスをその身にまとった、炎の魔女だった。
そして、その彼女の足元を中心として、半径2メートルの空間が、陽炎のように揺らめき始めた。聖なる炎のオーラ、ライチェスファイアー。
その、あまりにも劇的な、そしてどこまでも美しい変身。
それに、コメント欄は、畏敬と、そして純粋な興奮に、支配された。
なんだこれ!?
衣装が変わった!?すげえええええ!
うわー凄いですねライチェスファイアー!
ってか、あの装備、本物の【炎の衣】じゃねえか!B級ユニークの最高峰!ライチェスファイアービルドのガチ装備やんけ!
その、有識者からの的確な指摘。
それに、結菜は少しだけ照れくさそうに、はにかんだ。
「あ、はい!実は、親がくれまして…。私の両親、二人ともA級冒険者なんですよね」
その、あまりにもさらりとした、そしてどこまでも衝撃的なカミングアウト。
それに、コメント欄は、再び爆発した。
はああああああああああああああああああああ!?!?
両親A級!?マジかよ!
とんでもねえ、サラブレッドじゃねえか…!
その、熱狂の渦の中で。
リリィだけが、その眠たげな瞳を、わずかに細めていた。
「…へぇ。あったかそうですね、そのお洋服…」
「え、あ、はい!」
「いいなー…。私も、ほしいです…」
その、あまりにもマイペースな、そしてどこまでも子供っぽい感想。
それに、結菜は思わず、くすりと笑ってしまった。
◇
二人は、F級ダンジョン【ゴブリンの巣】へと、その歩みを進めた。
それは、もはや冒険ではなかった。
ただの、のんびりとした散歩だった。
彼女たちが、薄暗い洞窟の回廊を、他愛のない雑談をしながら歩いていく。
リリィ: 「しずくさんって、いつも何時に寝るんですか…?」
しずく: 「え、えっと…大体、12時くらいには…」
リリィ: 「早いですね…。私は、お昼の12時です…」
しずく: 「ええっ!?」
wwwwwwwwwwww
会話が、噛み合ってねえwww
でも、それがいい…
彼女たちの、そのあまりにも平和な会話。
その、すぐ足元で。
別の、しかし同じくらい平和な物語が、繰り広げられていた。
しずくのライチェスファイアーのオーラ。
その聖なる炎の輪の中に、何も知らずに飛び込んできたゴブリンたちが、3秒と経たずに、悲鳴を上げる間もなく、光の粒子となって消滅していく。
まさに、虫が夏の街灯に吸い寄せられるかのように。
「あ、ゴブリンさん…」
結菜が、その光景に気づき、申し訳なさそうに呟く。
「…すごいですね、ライチェスファイアー…」
リリィが、その光景を、眠たげな瞳で眺めながら、どこか感心したように言った。
そして、ゴブリンたちが消滅した、その跡地。
そこに、ポツリ、ポツリと、紫色の魔石がドロップする。
だが、その数は、明らかに異常だった。
一体のゴブリンから、時には二つ、三つと、魔石が零れ落ちる。
あれ?
ドロップ、多くないか?
気のせいか…?
コメント欄が、その小さな違和感に、ざわめき始めた。
その謎に、答えたのは、当事者であるリリィ自身だった。
彼女は、大きな欠伸を一つすると、まるで世界の秘密でも打ち明けるかのように、言った。
「…ああ、それ、たぶん私のスキル効果ですねー」
「え?」
「私のスキル、【怠惰なる福音】。私が、何もしないで、怠けてれば怠けてるほど、パーティ全体の運とか、ドロップ率とか、クリティカル率を、勝手に上昇させるんですよー」
「だから、私、何もしない方が、役に立つんです。えへへ…」
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも彼女らしいカミングアウト。
それに、コメント欄は、畏敬と、そして純粋な爆笑に、支配された。
凄いですね!
なんだそのチートスキルは!
最強の、寄生スキルじゃねえか!
その、あまりにも平和で、そしてどこまでも効率的な、蹂躙劇。
それが、唐突に終わりを告げたのは、彼女たちがダンジョンの最深部…ボスの間へとたどり着いた時だった。
◇
そこにいたのは、一体の、ひときわ巨大なゴブリン・シャーマン。
その周りには、十数体のゴブリンの親衛隊が、王を守るように陣形を組んでいる。
「グルオオオオオオオオオオッ!!!!!」
シャーマンが、その骨の杖を天へと掲げ、威嚇の咆哮を上げた。
その、あまりにも圧倒的なプレッシャー。
それに、結菜は、ゴクリと喉を鳴らした。
だが、彼女の瞳には、もはや恐怖の色はない。
ただ、自らに与えられた役割を、全力で果たそうという、強い意志の光だけが宿っていた。
「――リリィさん!」
彼女は、その後ろで欠伸を噛み殺している、その怠惰な聖女へと、叫んだ。
「じゃあ、前衛するので、ダメージ入ったらヒールお願いします!」
「んー…はい、分かりましたー…」
その、あまりにも気の抜けた返事。
だが、結菜は、その言葉を信じた。
彼女は、その手に握られた長剣を構えると、一直線に、ゴブリンシャーマンへと突撃した。
戦いが、始まった。
結菜は、もはやただのVTuberではない。
一つの、完成された「タンク」だった。
彼女は、その身に宿した【剣聖の剣術】で、シャーマンの、そして親衛隊たちの、その嵐のような猛攻を、完璧に、そして美しく、いなし続ける。
そして、その彼女に触れようとする全ての敵を、その身に纏うライチェスファイアーの聖なる炎が、容赦なく焼き尽くしていく。
彼女は、その戦場の中心で、舞い踊っていた。
そして、彼女は叫んだ。
その声には、絶対的な、そしてどこまでも温かい、庇護の意志が宿っていた。
「はいはい、シスターには指一本触れさせませんよー!」
その、あまりにも勇ましく、そしてどこまでも美しい光景。
それに、コメント欄は、熱狂した。
だが、F級とはいえ、ボスはボス。
シャーマンが放った、ひときわ巨大な呪いの魔弾。
それを、結菜は避けきれなかった。
彼女のHPが、自動回復の速度を上回る勢いで、削られていく。
だが、その瞬間。
彼女の背後から、一つの、どこまでも穏やかで、そしてどこまでも力強い、聖なる光が、彼女の体を包み込んだ。
リリィの、回復魔法だった。
彼女は、その眠たげな瞳を、わずかに開き、その指先から、神の恩寵そのものを、放っていた。
結菜のHPが、瞬時に、全回復する。
そして、その一瞬の隙。
それこそが、この戦いの、全てを決定づけた。
結菜の、渾身の一撃が、シャーマンの、そのがら空きになった心臓を、確かに、そして完全に、貫いた。
ボスは、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その存在を、完全に消滅させた。
静寂。
後に残されたのは、山のようなドロップ品と、そしてその中心で、荒い息をつきながら、しかし確かな勝利を噛みしめる、二人の少女の姿だけだった。
「――いえーい!」
二人は、その場でハイタッチを交わした。
その、あまりにも温かい、そしてどこまでも尊い光景。
それに、コメント欄は、この日一番の、そしてどこまでも優しい、祝福の嵐に、完全に包まれた。
コラボ配信は、大成功のうちに、その幕を閉じた。
◇
その日の夜。
新宿の、とある完全個室の焼肉店。
二人の少女は、その日の勝利を祝して、ささやかな、しかしどこまでも温かい宴を開いていた。
「いやー、それにしても、しずくさん、強かったですねー」
リリィが、その口の周りをタレで汚しながら、言った。
「リリィさんの、回復魔法のおかげですよ!」
結菜もまた、その最高の笑顔で、答えた。
二人は、その日の冒険譚を、まるで昨日のことのように、楽しそうに語り合った。
そして、その会話の、最後に。
結菜は、意を決したように、言った。
「あの…リリィさん!また、一緒に、冒険してくれますか?」
その、あまりにも真っ直ぐな、そしてどこまでも温かい、問いかけ。
それに、リリィは、その眠たげな瞳を、これ以上ないほど、優しく細めた。
そして、彼女は答えた。
「…はい。ぜひ、喜んで」
その、あまりにも美しい、そしてどこまでも尊い、新たな友情の始まり。
家に帰る道すがら、結菜の心は、これ以上ないほどの、ルンルンとした気分で、満たされていた。