第2話 幸運の女神と、神託の賽銭箱
土曜日の昼下がり。
西新宿の空は、梅雨明け前のじっとりとした湿気を含んだ灰色の雲に覆われ、アスファルトの熱気が陽炎のように立ち上っていた。都庁のすぐそばにそびえ立つ、ガラス張りの近代的な高層ビル――関東探索者統括管理センターの内部は、その陰鬱な天候が嘘のように、人の熱気でむせ返っていた。
この物語の主人公、佐藤結菜は、その群衆の中にいた。
18歳。半年前にVTuber「神楽坂しずく」としてデビューし、登録者50人、同時接続者数5人という輝かしい(と本人は自虐的に思っている)記録を打ち立てた、どこにでもいる少女。彼女は今、人生で初めて、自らの意志でこの世界のもう一つの側面…ダンジョンという理不尽なテーブルへと、その足を踏み入れようとしていた。
空調が効いているはずの広大なロビーは、期待と不安と、そして一攫千金への剥き出しの欲望が入り混じった、独特の匂いで満たされている。
「次、345番の方ー!5番カウンターへどうぞー!」
無機質なアナウンスが響くたびに、プラスチック製の硬い椅子に座って自分の番を待つ人々の間から、どよめきとため息が漏れる。その群衆の中心にいるのは、冒険者学校の真新しい制服に身を包んだ、希望に満ち溢れた若者たち。そして、そんな彼らをどこか羨ましそうに、あるいは値踏みするように眺めている、スーツ姿や普段着の上に申し訳程度の装備を身に着けた、大人たち。先月、政府とギルドが鳴り物入りで発表した『プラス・アルファ・フロンティア制度』に釣られてやってきた、ごく普通の社会人たちだ。
結菜は、そのどちらでもなかった。
彼女は、ただの私服。少しだけ着古した白いブラウスと、動きやすいジーンズ。その手には、プラスチックの番号札が一つ、汗で湿るほど強く握りしめられている。
(…すごい人の数…)
彼女は、そのあまりの熱気に気圧され、すでに帰りたくなっていた。A級探索者の両親を持つ彼女にとって、ダンジョンという存在は日常の一部だった。だが、それはあくまで「外から眺める」日常。その内側…当事者たちが集うこの場所の空気は、彼女が想像していたよりもずっと生々しく、そして暴力的だった。
誰もが、目をギラつかせている。自らの人生を、一発逆転させるための「奇跡」を求めて。
(私に、できるのかな…)
昨夜、自室で固めたはずの決意が、早くも揺らぎ始めていた。VTuberとして成功するために、ダンジョン配信を始める。それは、あまりにも合理的で、そしてどこまでも彼女の心とはかけ離れた、ビジネスライクな決断だったはずだ。だが、この場所に渦巻く本物の「渇望」を前にして、彼女の覚悟はあまりにも脆く、そして青臭いもののように感じられた。
その時だった。
『777番の方、7番カウンターへどうぞ』
そのアナウンスを聞いた瞬間、彼女の肩がわずかにピクリと動いた。
「…あ」
握りしめていた番号札に目を落とす。そこに刻まれていたのは、紛れもなく『777』という、あまりにも出来すぎた数字だった。
周囲から、「お、スリーセブンだ」「幸先良いな」という囁き声が聞こえてくる。
結菜は、その声に背中を押されるように、おずおずと立ち上がった。そして、指定された7番カウンターへと向かう。
そこにいたのは、きっちりとしたギルドの制服に身を包んだ、美しい女性職員だった。
艶やかな栗色の髪をきっちりとしたシニヨンにまとめ、そのマニュアル通りの完璧な笑顔。だが、その瞳の奥には、長年の業務で培われたであろう、鋭い観察眼が光っていた。
佐々木彩。
この関東探索者統括管理センターに勤めて5年になる、中堅の職員。ギルド職員の間で、彼女は密かにこう呼ばれていた。
――『幸運の女神』、と。
彼女が担当した新人探索者の中から、なぜか、後に伝説となるほどの規格外の才能が、次々と生まれてきたからだ。彗星の如く現れ、今やS級のトップランカーとしてその名を世界に轟かせている、あの“JOKER”。彼の最初のユニークスキルを鑑定したのも、何を隠そう、この彼女だった。
その彼女の、ギルド職員としての直感が、告げていた。
777。スリーセブン。
――来る、と。
彼女は、背筋を伸ばし、その完璧なプロフェッショナルの笑顔で、その幸運な番号札を持つ少女を、出迎えた。
そして、その少女の姿を見た瞬間、彼女の心の中に灯っていた小さな期待の炎は、ほんの少しだけ、その勢いを失った。
そこに立っていたのは、英雄とは、あまりにもかけ離れた少女だったからだ。
少し俯きがちで、どこか自信なさげな、ごく普通の、どこにでもいる18歳の少女。その瞳には、野心も、渇望も、そして狂気すらも宿っていない。ただ、純粋な不安だけが、その大きな瞳を揺らめかせていた。
(…まあ、そんなものよね)
彩は、内心で小さくため息をついた。
奇跡は、そう何度も起こるものではない。
「はい、777番の方ですね。佐藤結菜さん、でよろしいでしょうか」
彩の、その鈴を転がすような声。
それに、結菜は黙って頷くと、その少しだけ汗ばんだ掌を、カウンターに設置された黒いパネル…スキル測定器の上へと置いた。
ひんやりとした、感触。
その瞬間だった。
彼女が、これまで感じたことのない現象が起こった。
測定器の中央に埋め込まれた水晶が、これまでのどの鑑定とも違う、まばゆい、黄金の光を放ち始めたのだ。
それは、彼がこれまでの人生で一度も浴びたことのない、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも神々しい光の奔流。そのあまりにも異常な光景に、待合室にいた全ての探索者たちが、一斉に息を呑み、その7番カウンターへと視線を集中させた。
彩の、完璧だったはずの笑顔が、凍りついた。
彼女の、ギルド職員としての全ての経験が、警鐘を鳴らしていた。
(この光…!)
これだ。
この光は、あのJOKERの時と、同じ。
いや、違う。あの時の、全てを喰らい尽くすかのような禍々しい光とは、違う。
もっと、温かく、そしてどこまでも優しい、慈愛に満ちた光。
だが、その根源にあるエネルギーの総量は、あの時と、同等。
あるいは、それ以上だ。
彼女の目の前のモニターに、その結果が表示された。
彼女は、その文字を読み上げようとして、言葉を失った。
その顔は、蒼白だった。
その瞳は、信じられないものを見たかのように大きく見開かれ、そして小刻みに震えていた。
彼女は、何度も、何度も、モニターと目の前の、ごく普通の少女の顔を見比べた。
そして彼女は、震える声で、ようやくその神の御名を、口にした。
「――等級、SSS…」
「スキル名…」
彼女が、その名を告げる。その声は、もはや彼女のものではない。
神の言葉を、ただ代弁するだけの、巫女のようだった。
「――神託の賽銭箱…?」
その、あまりにも荘厳な響き。
それに、結菜の心臓が、ドクンと大きく音を立てた。
(SSS…!?私が…?)
彼女の脳内に、これ以上ないほどの、高揚感が駆け巡る。
人生、大逆転。
VTuberとしての、成功。
そして、両親に、初めて胸を張れる、自分だけの「結果」。
その、バラ色の未来。
彼女は、食い入るように、モニターに表示された詳細なテキストを、その目に焼き付けた。
[画像:古びた、しかしどこか神聖な気配を漂わせる木製の賽銭箱のアイコン。その賽銭を入れる隙間からは、絶えず柔らかな黄金色の光が溢れ出している。]
名前:
神託の賽銭箱
(Oracle's Offering Box)
レアリティ:
ユニークスキル (等級:SSS)
種別:
パッシブスキル / 召喚 / 法則介入
効果テキスト:
このスキルを持つ者は、自らの意志で聖なる**【賽銭箱】**を認識空間に呼び出すことができる。
この【賽銭箱】は、術者へと向けられるあらゆる「応援」を**ミラクルポイント(MP)**へと自動的に変換し、蓄積する機能を持つ。
**金銭的応援(スパチャ等)**は、その価値に応じて直接MPへと変換される。
**精神的応援(応援コメント、高評価等)**は、その熱量に応じてMPの自動生成レートを上昇させる。
術者が生命の危機に瀕した際、精神的応援のMPへの変換効率は爆発的に増大する。
蓄積されたMPを「対価」として【賽銭箱】に捧げることで、術者は一時的に世界の理を超えた様々な**「奇跡」**を授かることができる。
フレーバーテキスト:
他の神々はサイコロを振る。
しかし巫女は、天に祈らない。
彼女は、神々そのものを、この地へと降ろすのだ。
その器となるは、ただ一つの古びた箱。
無限の全能へと至る、最初の奉納が、今始まる。
テキストを、読み進めていく。
結菜の、その大きな瞳が、その意味を理解するにつれて、これ以上ないほど、キラキラと輝き始めた。
賽銭箱…?
応援を、力に…?
スパチャ…?
応援コメント…?
(これって…)
彼女の、VTuberとしての魂が、その言葉の、本当の意味を理解した。
(これって、私のためのスキルじゃん…!)
そうだ。
これは、ただの戦闘スキルではない。
彼女が、半年間、誰にも認められず、それでも信じ続けてきた、彼女だけの「道」。
VTuberという、生き方そのものを、肯定し、そして祝福してくれる、神からの、贈り物。
彼女の、その半年間の孤独と、不安と、そして報われなかった努力。
その全てが、今この瞬間、報われた。
「――すごい…!」
彼女の口から、心の底からの、歓喜の声が漏れた。
「すごい!すごい!」
彼女は、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねたい衝動を、必死にこらえた。
その瞳には、もはや不安の色はない。
ただ、自らの運命が、今、この瞬間、確かに、そして輝かしく動き始めたことへの、絶対的な確信だけが宿っていた。
「これなら…!」
彼女は、その小さな拳を、強く握りしめた。
「これなら、私の配信活動と、ピッタリ合う…!」
「運が、向いてきた…!」
その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも前向きな、魂の輝き。
それを、目の前で見ていた佐々木彩は、ただ息を呑むことしかできなかった。
そうだ。
この輝きだ。
あのJOKERが、その絶望の淵から這い上がってきた時に見せた、あの光と、同じ。
いや、違う。
彼のそれが、全てを破壊し尽くす、黒い太陽の輝きだったとすれば。
彼女のそれは、全てを優しく包み込み、そして新たな始まりを告げる、夜明けの、黄金の光。
『幸運の女神』は、その日、再び、神話の誕生を、その目に焼き付けた。
そして彼女は、そのプロフェッショナルな仮面の下で、静かに、そして深く、誓った。
この、あまりにも無垢で、そしてあまりにも大きな可能性を秘めた少女を、ギルドの、そして自らの、全ての力をもって、守り抜かなければならない、と。
彼女の、あまりにも壮大で、そしてどこまでも波乱に満ちた物語の、最初のページが、今、確かに、めくられたのだから。