第11話 氷の剣士と、神託の巫女
ジュネーブ、国際公式ギルド本部。
その、世界の秩序を司る心臓部の、さらに奥深く。一般の職員ですらその存在を知らない、影の支配者の執務室。
部屋の中央に鎮座する巨大な黒曜石のデスクの前で、一人の壮年の男が、ホログラムモニターに映し出された一つの配信アーカイブを、静かに、しかしどこまでも鋭い瞳で見つめていた。
画面の中で、炎のドレスを纏った巫女の少女が、楽しそうに、そしてどこまでも無邪気に、ゴブリンの群れを蹂躙している。その隣では、銀髪のシスターが、退屈そうに欠伸をしながら、時折、神の御業としか思えない奇跡を起こしていた。
『――しずくさん、強かったですねー』
『リリィさんの、回復魔法のおかげですよ!』
その、あまりにも平和で、そしてどこまでも微笑ましい少女たちの会話。
だが、男の表情は、一切緩まなかった。
彼の名は、誰も知らない。ギルド内部では、ただ「支部長」とのみ呼ばれる、極東支部を影から支配する男。そして、あの睡蓮の上官である。
彼は、その配信の、全てのログデータを、その超人的な頭脳で分析していた。
ミラクルポイントの収支、スキルの発動コスト、そして何よりも、そのあまりにも気まぐれで、そしてどこまでも予測不能な「奇跡」の奔流。
「…面白い」
男は、誰に言うでもなく呟いた。
「JOKERの【運命の天秤】が、確率そのものを捻じ曲げる『外科手術』だとすれば、この【神託の賽銭箱】は、世界の理そのものを無視して、全く新しい『解』をゼロから創造する、神の御業か」
彼は、そこで一度言葉を切ると、その指先で、デスクに埋め込まれた通信パネルを、軽くタップした。
『――睡蓮』
「はい。こちら、睡蓮」
スピーカーから、あの銀髪のエージェントの、どこまでも冷静な声が返ってきた。
「対象の、第一次接触は完了しました。報告書は、すでにご覧の通りかと」
「ああ、見た」
支部長は、頷いた。
「面白い娘だ。だが、あまりにも無垢で、そしてあまりにも、危険すぎる。あの力は、まだ彼女の掌には、余る」
「…では?」
「テストを、行う」
支部長の声は、どこまでも冷徹だった。
「彼女の力が、本物かどうか。そして何よりも、その力が、極限の状況下で、どちらの方向へと転ぶのか。それを見極める必要がある」
「…承知しました。舞台と、共演者の選定は?」
「ああ。すでに、手は打ってある」
支部長は、そう言うと、もう一つのARウィンドウを開いた。
そこに映し出されていたのは、一人の、あまりにも美しい、しかしどこまでも孤独な、銀髪の少女剣士の、配信アーカイブだった。
◇
その日の夜。
佐藤結菜の部屋は、これまでにないほどの、幸福な熱気に満ちていた。
シスター・リリィとのコラボ配信は大成功に終わり、彼女のチャンネル登録者数は、一夜にして3万人を突破した。Xのタイムラインは、彼女たちの「てぇてぇ」を語るファンアートと、切り抜き動画で埋め尽くされている。
彼女は、その温かい光の海の中を、夢見心地で漂っていた。
VTuberとして、初めて掴んだ、確かな手応え。
そして、初めてできた、心から信頼できる「友達」。
彼女の人生は、今、確かに輝き始めていた。
ピロリン♪
彼女のPCから、一通のメールを受信したことを告げる、軽快な通知音が鳴った。
(…また、コラボのお誘いかな?)
彼女は、少しだけ浮ついた気持ちで、そのメールを開いた。
そして、その件名を見た瞬間。
彼女の、その幸福な夢は、現実の、冷たい水によって、一瞬で覚まされた。
【件名:【国際公式ギルド】新人探索者向け特別イベント『ライジング・スター・チャレンジ』へのご招待】
【差出人:国際公式ギルド・極東支部・新人育成課】
(…ギルド、から…?)
彼女は、震える指で、そのメールを開いた。
そこには、丁寧な、そしてどこまでも公式的な文面で、こう綴られていた。
『拝啓、神楽坂しずく様。この度は、貴殿の目覚ましいご活躍、心よりお慶び申し上げます。つきましては、来る週末、有望な新人探索者を対象とした特別ダンジョン攻略イベント『ライジング・スター・チャレンジ』に、貴殿を特別招待選手として、ご招待させて頂きたく、ご連絡いたしました』
『本イベントは、ギルドが管理する特殊なインスタンスダンジョンを舞台に、選ばれた数名の新人たちが、その実力を競い合うものです。優勝者には、多額の賞金と、そしてギルドからの公式なバックアップが約束されます』
『貴殿の、その類稀なる才能を、世界の、より多くの人々に知らしめる、絶好の機会となるでしょう。ご参加を、心よりお待ちしております』
その、あまりにも名誉な、そしてどこまでも魅力的な、招待状。
だが、結菜の心は、喜びよりも、むしろ戸惑いで満たされていた。
(私が…?そんな、すごいイベントに…?)
彼女の脳裏に、JOKERや、アリスや、小鈴といった、本物の「天才」たちの顔が浮かび上がる。
それに比べて、自分は、どうだ。
ただ、運が良かっただけ。
ただ、視聴者の皆さんに、助けてもらっているだけ。
私なんかが、そんな場所に行っていいのだろうか。
その、彼女の内なる葛藤。
それを、見透かしたかのように。
彼女の肩の上で、小さな神の使いが、その小さな胸を張った。
「何を、迷うことがあるのだ、主よ」
コマさんの、その尊大な声が、彼女の迷いを、一喝した。
「これは、挑戦状である。世界の、凡百の才能たちが、我が主の、その神の御業の前にひれ伏すための、最高の舞台ではないか。受けて立たぬは、臆病者のすることぞ!」
その、あまりにも力強い、そしてどこまでも無責任な激励。
それに、結菜はふっと、その口元を緩ませた。
そうだ。
迷っていても、始まらない。
これは、チャンスなのだ。
私の、そして「神楽坂しずく」の物語を、もっと多くの人に知ってもらうための。
「…うん。そうだね、コマさん」
彼女は、頷いた。
その瞳には、もはや迷いの色はない。
ただ、自らの運命を、その手で切り拓くという、静かな、しかし力強い決意の光だけが宿っていた。
彼女は、その震える指で、返信ボタンをタップした。
そして、一言だけ、打ち込んだ。
『――参加、させていただきます』
◇
イベント当日。
東京湾岸エリアに新設された、巨大なドーム型転移施設、『アーク・ゲート・アリーナ』。
その、関係者専用の、VIPラウンジ。
そこに、今回の『ライジング・スター・チャレンジ』に選ばれた、十数名の精鋭たちが、集結していた。
その空気は、ピリピリとした緊張感に満ちていた。誰もが、互いをライバルとして、その実力を値踏みするように、牽制しあっている。
その中で、結菜は、完全に浮いていた。
彼女は、そのあまりにも豪華な空間に気圧され、部屋の隅で、ただ小さくなっていた。
(…すごい人たちばっかりだ…)
彼女の周りには、冒険者学校のランキング上位者や、すでにB級ダンジョンを攻略しているという、若き天才たちの姿があった。
その、あまりにも大きな「格」の違い。
それに、彼女の心は、再び萎縮しそうになっていた。
その、彼女の、あまりにも人間的な、そしてどこまでも場違いな姿。
それを、ラウンジの、最も奥のソファに深く腰掛け、一人の少女が、その氷のように冷たい瞳で、静かに観察していた。
銀髪に、蒼い瞳。
その身を包んでいるのは、一切の無駄な装飾を排した、機能美の極致とも言える、白銀の軽鎧。
その腰には、一本の、まるで月光そのものを鍛え上げて作られたかのような、美しい太刀が差さっている。
彼女の名は、氷川刹那。
元オーディン育成機関のトップ候補にして、今は誰にも組せず、ただ自らの剣の道だけを追い求める、孤高の天才剣士VTuber。
彼女は、目の前で繰り広げられる、この新人たちの、あまりにも青臭い交流を、心の底から、軽蔑していた。
そして、その軽蔑の、最も大きな矛先は、あの少女へと向けられていた。
神楽坂しずく。
SSS級スキル。
その、あまりにも甘美な響き。
だが、刹那にとって、それはただの「まやかし」でしかなかった。
(…運と、視聴者頼み。それが、お前の力か)
彼女は、心の中で、吐き捨てるように言った。
(ふざけるな。真の強さとは、誰にも頼らず、ただ自らの、この一振りのみに宿るものだ)
彼女は、自らの太刀の、その冷たい柄を、強く握りしめた。
やがて、イベントの開始を告げるブザーが鳴り響いた。
参加者たちは、一斉に、中央の転移ゲートへと向かう。
結菜もまた、その人の波に押されるようにして、その光の中へと、その一歩を踏み出した。
彼女の、本当の「試練」が、今、始まろうとしていた。
◇
彼らが転送された先。
そこは、C級ダンジョン【忘れられた錬金術師の工房】を、さらに凶悪に改造したかのような、悪意に満ちた迷宮だった。
床からは、絶えず毒の沼が湧き出し、壁からは、無数の機械仕掛けの刃が、予測不能な軌道で飛び出してくる。
そして、その闇の中から現れるのは、通常の個体を遥かに上回る、強化されたモンスターたち。
それは、もはやただのレースではなかった。
一つの、完璧な「ふるい」だった。
真の実力を持たない者を、容赦なく脱落させるための。
だが、その地獄絵図の中を、二つの影だけが、まるで散歩でもするかのように、悠然と進んでいた。
氷川刹那。
彼女は、その神がかった剣技で、全てのトラップを、全てのモンスターを、まるで存在しないかのように、切り伏せ、そしてすり抜けていく。
そして、神楽坂しずく。
彼女は、その身に纏うライチェスファイアーの聖なる炎で、全ての脅威を、その身に触れる前に、焼き尽くしていた。
二人は、他の全ての参加者を、圧倒的なまでの大差で引き離し、トップを独走していた。
そして、ついにその場所へとたどり着いた。
ダンジョンの、最深部。
ひときわ巨大な、円形の実験場。
その中央に、それはいた。
この、イベントのために、ギルドが特別に用意した、究極の「番人」。
三体の、巨大なキメラが、融合したかのような、冒涜的なまでの怪物。
【錬金の悪夢、キマイラ・プライム】。
その、あまりにも圧倒的なプレッシャー。
それに、刹那は、その氷の仮面のような表情を、初めて、わずかに引き締めた。
そして、彼女は叫んだ。
「――そこまでだ、まやかしの巫女。この獲物は、私が狩る」
その、あまりにも一方的な、そしてどこまでも力強い、宣戦布告。
それに、結菜はただ、戸惑うことしかできなかった。
だが、その彼女たちの、個人的な確執。
それを、嘲笑うかのように。
キマイラ・プライムが、咆哮を上げた。
そして、戦いの火蓋は切って落とされた。
戦いは、熾烈を極めた。
刹那の、その神速の剣技が、キマイラの、その硬い甲殻に、無数の火花を散らす。
だが、そのダメージは、あまりにも小さい。
キマイラの、その圧倒的な再生能力の前に、全てが無に帰していく。
そして、キマイラの、その三つの頭から放たれる、炎と、氷と、雷の、三属性のブレス。
その、あまりにも苛烈な弾幕の前に、刹那の、その完璧だったはずの回避が、初めて、その綻びを見せ始めた。
彼女の、その白銀の鎧が、黒く焼け焦げ、そして凍てつき、そして砕け散る。
彼女のHPバーが、みるみるうちに、その輝きを失っていく。
(…くっ…!強い…!)
刹那は、その唇を、悔しそうに噛みしめた。
だが、彼女は決して、諦めなかった。
なぜなら、彼女は、天才だったからだ。
そして、天才とは、決して折れない者の、代名詞なのだから。
だが、その彼女の、あまりにも気高い、そしてどこまでも孤独な戦い。
それを、終わらせたのは、一つの、あまりにも温かい、そしてどこまでもお節介な、声だった。
「――あの!」
結菜の声だった。
彼女は、その戦いの、その中心へと、ためらうことなく、その身を投じていた。
「一人で、戦わないでください!」
彼女は、そう叫ぶと、その手に持つ、安物の長剣を構え、刹那の、その傷だらけの体の前に、仁王立ちになった。
「私が、壁になります!だから、あなたは、あなたの剣を、信じてください!」
その、あまりにも無謀な、そしてどこまでも真っ直ぐな、魂の叫び。
それに、刹那の、その氷のようだったはずの心が、大きく、そして確かに、揺さぶられた。
そして、その瞬間。
結菜の、その小さな背中が、これまでにないほどの、まばゆい黄金の光に、包まれた。
彼女の、その配信のコメント欄が、爆発していた。
視聴者たちの、「彼女を助けたい」という想い。
それが、奇跡の、引き金となった。
彼女の、ミラクルポイントが、爆発的に増大していく。
そして、彼女は叫んだ。
その声は、もはやただのVTuberではない。
一つの、奇跡を代行する、神の巫女の、それだった。
「――コマさん!お願い!」
「うむ!任せるが良い!」
彼女の魂に、一つの、あまりにも強力な、そしてどこまでも温かい、奇跡が宿った。
【大樹の恩寵】。
毎秒、500のHPを自動的に回復する、絶対的な生命の祝福。
その、緑色のオーラが、結菜と、そして刹那の、その傷だらけの体を、優しく包み込んだ。
二人のHPが、みるみるうちに、全回復していく。
その、あまりにも理不尽な光景。
それに、刹那は、ただ言葉を失っていた。
だが、彼女は、すぐに我に返った。
そして、彼女は初めて、その隣に立つ、小さな巫女の、その本当の「強さ」を、認めた。
そして、彼女は笑った。
その顔には、最高の、そしてどこまでも楽しそうな、剣士の笑みが浮かんでいた。
「…面白い。面白いじゃないか、まやかしの巫女」
「――ならば、見せてやろう。我ら二人の、本当の力を!」
そこから、始まったのは、もはやただの戦闘ではなかった。
一つの、完璧な「舞踏」だった。
結菜が、その絶対的な回復力で、キマイラの全ての攻撃を受け止め、壁となる。
そして、その壁の、その内側で。
刹那が、その神速の剣技を、何の憂いもなく、ただひたすらに、解き放つ。
二つの、あまりにも対照的な才能。
それが、一つの完璧なハーモニーとなって、その戦場を、支配した。
そして、ついにその時は来た。
刹那の、その渾身の一撃が、キマイラの、その三つの心臓を、同時に、そして完全に、貫いた。
勝利。
その、あまりにも劇的な、そしてどこまでも美しい、逆転劇。
それに、世界の、全ての人間が、心を奪われていた。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、互いの体を支え合いながら、しかし確かな勝利を噛みしめる、二人の少女の姿だけだった。
彼女たちの、あまりにも奇妙で、そしてどこまでも美しい、物語の始まりだった。




