第1話 底辺巫女VTuber、賽銭箱を夢見る
時刻は、午後10時を少し回ったところ。
西新宿の夜景は、今日も変わらず、地上に再現された天の川のように無数の光を瞬かせていた。その光の奔流を見下ろす、あるタワーマンションの一室。防音設備が完璧に施されたその部屋では、一人の少女が、世界の喧騒から切り離された小さな舞台の上で、たった数人の観客のために、その夜最後の歌を歌っていた。
彼女の名前は、佐藤結菜、18歳。
しかし、今この瞬間、彼女は佐藤結菜ではない。
艶やかな黒髪を雅な巫女装束にまとめ、その大きな瞳には慈愛と神秘の光を宿す、ヴァーチャル・チューバー(VTuber)――神楽坂しずく。
それが、彼女のもう一つの名前であり、半年前にこの世界に生まれた、彼女の分身だった。
「――き、聴いてくれて、ありがとうございました。以上、神楽坂しずくでした」
最後の音が消えると同時に、彼女は深々と頭を下げた。ARカメラが捉える巫女アバターは、完璧な優雅さでお辞儀をしている。だが、そのアバターを動かす本人…結菜の表情は、達成感ではなく、安堵と、そしてそれ以上に大きな疲労の色に染まっていた。
彼女の視線の先、モニターの片隅に表示された配信画面のコメント欄には、温かい拍手の絵文字と、数行のメッセージが流れていた。
常連A: 88888888
MofuMofuLover: 今日の歌も最高でした!心が浄化されます…。
しずくちゃん推し: おつしずー!また明日も来るね!
通りすがり: うま
常連B: お疲れ様でした!ゆっくり休んでくださいね!
同時接続者数は、「5」。
いつも見てくれる、熱心なファン5人。
半年前のデビュー配信から、この数字はほとんど変わっていない。
彼女のVTuberとしてのスペックは、決して低くはなかった。
父親は大手商社に勤めるエリートサラリーマン、母親は元A級探索者という絵に描いたようなエリート家庭。その潤沢な資金力によって、彼女の配信環境はプロの配信者も顔負けのレベルで整えられている。最新鋭のPC、プロ用のコンデンサーマイク、そして表情の細かなニュアンスまで完璧に捉える高性能なARカメラ。
歌声も、決して下手ではなかった。むしろ、専門的な訓練を受けたことはないものの、聴く者の心を優しく包み込むような、透き通った癒やしの声質を持っていた。
彼女が好きなゲームは、世界中で人気のサンドボックスゲームや、チームで協力するFPS。雑談配信では、最近見たアニメや、新商品のスイーツについて、一生懸命に、そして少しぎこちなく語る。
どこにでもいる、ごく普通のVTuber。
そして、それ故に、彼女は埋もれていた。
数万、数十万というVTuberがひしめき合う、この巨大なレッドオーシャンの中で。チャンネル登録者数「50人」という数字は、彼女の半年間の努力が、残酷なまでに報われていないことを示していた。
「…おつしずでしたー」
結菜は、最後の力を振り絞るように、配信終了のボタンを押した。
その瞬間、神楽坂しずくという完璧な巫女の仮面は剥がれ落ち、部屋にはただの佐藤結菜が、一人取り残される。
彼女は、ゲーミングチェアの背もたれに、ぐったりと体を預けた。
「はぁ……」
モニターに表示された、今日の配信のアーカイブ。再生数は、二桁に届くかどうか。
半年間、ほぼ毎日続けてきた。学校から帰ってきて、夕食もそこそこにPCの前に座り、深夜まで歌い、語り、笑った。だが、現実は変わらない。
(…もう、無理なのかな)
諦めの感情が、心の奥底から黒い染みのように広がっていく。
両親は、彼女の活動を、いつも温かく見守ってくれていた。
「結菜はまだ若いんだから、焦らず好きなことを見つけなさい」
週末にはA級ダンジョンに潜り、家計を支えるどころか莫大な富を稼ぎ出す父親は、いつもそう言って彼女の頭を優しく撫でた。
「しずくちゃんの歌、お母さん大好きよ。今日の配信も素敵だったわ」
元A級ヒーラーでありながら、今は完璧な主婦としてこの家を支える母親は、配信が終わる頃合いを見計らって、いつも温かいハーブティーを部屋に差し入れてくれた。
その優しさが、今の結菜には、何よりも重かった。
期待に応えられない、申し訳なさ。
エリート一家の、唯一の「出来損ない」であるという、劣等感。
彼女は、ARコンタクトレンズの視界を操作し、SeekerNetのトレンドページを開いた。
そこに表示されていたのは、彼女がこの半年間、意識的に目を背けてきた、しかし決して無視することのできない、一つの巨大な「現実」だった。
X(旧Twitter)トレンド - 日本
1位: #V探索者デビュー
2位: #アリア姫守護隊
3位: #るなみかんデート
タイムラインを、指でなぞる。
そこには、自分とは全く違う世界で輝く、同世代のVTuberたちの姿があった。
ナロウライブ所属の癒月アリアが、F級ダンジョンでゴブリンに追いかけられて泣いているだけのクリップ映像が、数百万回再生されている。
カクヨムライブの鬼灯るるが、寝ぼけながらリフトの高ランクをクリアしたという切り抜き動画が、世界のトレンドに入っている。
彼女たちが、たった一度の配信で手に入れる賞賛と注目。
それが、自分が半年かけても手に入れられなかったものであるという、あまりにも残酷な事実。
(何が、違うんだろう…)
(歌も、トークも、一生懸命やってるつもりなのに…)
結菜は、スマホをベッドに放り投げ、天井を仰いだ。
(結局、これ(ダンジョン配信)しかないのかな…)
それは、憧れではなかった。
純粋な興味でもなかった。
ただ、このまま消えたくない。VTuberとして、もう少しだけ夢を見ていたい。
その、あまりにも切実で、クリエイターとしての「渇望」が、彼女の中で一つの決意を固めさせた。
「…やってみる、しか、ないか」
ダンジョンは、好きでも嫌いでもない。両親の仕事場という認識しかなく、情熱は湧かない。
モンスターを倒すのは、面白そうじゃない。でも、別に平気。
これは、夢を続けるための、退屈で、面倒くさい「業務」だ。
こうして佐藤結菜は、VTuber「神楽坂しずく」としての成功を掴むため、情熱なき戦場である「ダンジョン」へと、その最初の一歩を踏み出すことを決意した。
◇
決意は、行動を伴ってこそ意味を持つ。
その翌日、結菜は自室のPCの前で、国際公式ギルドが運営するオンラインストアのページを開いていた。彼女の指先が、震えながらも、一つの商品をカートへと追加する。
【商品名:次世代型仮想人格投影システム - Standard Edition】
【価格:100,000円(税込)】
10万円。
高校生のアルバイトでは、数ヶ月かかる金額。
だが、彼女の口座には、両親が「自由に使っていいから」と振り込んでくれた、潤沢な「お小遣い」があった。
彼女は、そのお金を使うことに、いつも罪悪感を覚えていた。だが、今日だけは違った。
(…これは、投資。未来への、投資だから)
彼女は、そう自分に言い聞かせると、震える指で「購入を確定する」のボタンをクリックした。
画面に表示された『ご注文ありがとうございました』という無機質なテキストが、彼女の新たな人生の始まりを告げる、ゴングのように見えた。
その、神の御業にも等しいハイテク機器が、最新鋭のドローン配送によって彼女の元へと届けられたのは、そのわずか数時間後のことだった。
白い、ミニマルなデザインの箱。
その中には、未来そのものが詰まっているかのような、滑らかな質感の黒いボディスーツと、小型の浮遊ドローンカメラが入っていた。
結菜は、逸る心を抑えながら、そのボディスーツを身に着けた。ひんやりとした、第二の皮膚のような感触。
そして、彼女はシステムの起動スイッチを入れた。
彼女のARコンタクトレンズの視界が、一瞬だけノイズに覆われる。
そして、そのノイズが晴れた時。
彼女は、息を呑んだ。
自室に置かれた、姿見。
そこに映っていたのは、もはや佐藤結菜ではなかった。
艶やかな黒髪を雅な巫女装束にまとめ、その大きな瞳には慈愛と神秘の光を宿す、神楽坂しずく。
彼女が、そこにいた。
2Dの、画面の中の存在ではない。
完璧な3Dモデルとして、現実の光と影の中に、確かに「存在」していた。
「……すごい…」
結菜の口から、感嘆のため息が漏れた。
彼女が、おそるおそる右手を上げると、鏡の中の「しずく」もまた、寸分の狂いもなく、その優雅な袖を揺らしながら右手を上げた。
くるりと、回ってみる。
巫女装束の裾が、ふわりと舞った。
それは、もはやただの技術ではなかった。
魔法だった。
彼女が、半年間、夢見てきた理想の姿。
それが今、現実の肉体を得て、目の前にいる。
彼女の頬を、一筋の、温かい涙が伝った。
それは、半年間の苦労が報われたことへの、安堵の涙であり、そしてこれから始まる未知なる物語への、期待の涙だった。
浮遊ドローンカメラの映像を、PCのモニターで確認する。
おー、ちゃんとVの姿だ。
そこには、完璧なVTuber「神楽坂しずく」が、感動に打ち震えながら、しかしどこまでも美しく、佇んでいた。
この光景を、あの5人のファンに見せたら、どんな顔をするだろうか。
その想像だけで、彼女の心は、これまでにないほどの高揚感に満たされた。
「よし…」
彼女は、涙を拭った。
その瞳には、もはや迷いの色はない。
ただ、自らが進むべき道を、確かに見定めた者の、静かな、しかし力強い光だけが宿っていた。
彼女は、再びPCへと向かう。
そして、国際公式ギルドの、公式サイトを開いた。
その、あまりにもお役所的で、そしてどこまでも威圧的なデザインのページ。
だが、今の彼女には、それが世界の中心へと続く、輝かしい門のように見えた。
彼女は、そのページの、一つの項目をクリックした。
『新規探索者ライセンス取得、及び、ユニークスキル鑑定予約』
画面に表示されたフォームに、彼女は震える指で、自らの本名…「佐藤結菜」と、打ち込んでいく。
そして、予約可能な日時の中から、最も早い、明日の午前10時のスロットを選択した。
最後に、「予約を確定する」のボタンを、クリックする。
画面に、『予約が完了しました』という、無機質なテキストが表示された。
彼女は、その画面を、しばらくの間、ただじっと見つめていた。
そして、彼女は呟いた。
その声は、まだ少しだけ震えていた。
だが、そこには、確かな、そしてどこまでも純粋な祈りが、込められていた。
「――戦闘に使える、ユニークスキルだと、良いな…」
彼女の、本当の物語が、今、始まろうとしていた。
その祈りが、この世界の理そのものを、根底から覆すほどの、あまりにも巨大な「奇跡」の、引き金となることを。
彼女は、まだ知る由もなかった。