ラーメン凡太郎 その三
ラーメン雑誌の最新号を持って編集さんが訪れたのは、撮影の一ヶ月後だった。
半ページの下段。
テボを左手に持って、右手でラーメンを出す凡太郎の写真が大きく載っている。
これはカメラマンの演出だ。実際のオペレーションでは、湯切りと提供を同時にするなんてことはない。
いや、世間にはそんな店もあるのかもしれないが、凡太郎はやったことがない。トッピングの盛りつけに両手が使えないのがいやだからだ。
そして、「平々凡々たるラーメンです」というキャッチコピーが大きめに載っている。ボクサー時代の話は一言もない。
メールで版下の様子は見せてもらっていたので、違和感はなかった。しかし、実際の印刷物になっていると感慨もひとしおだ。
「いやー、これは嬉しい!」
凡太郎は素直に喜んだ。
他の店のページもめくっていて、意外なことに気づいた。
「吉田さんの店、今回は載ってないんですね」
「ああ、『俺っちラーメン』ですか。あそこは掲載を終えました」
いつも出ていたちょけた吉田の顔がないのは、ちょっとさみしい気がした。
「広告費がつきたんですかねえ」
「いえ、こちらからお断りしたんです。ほら、雑誌のアンケートがあるでしょ。これで評判がよくなかったもので」
確かに、雑誌の奥付の横にはアンケート葉書が付いている。切手を貼って出さなくてはならないので、よほど思い入れがなければ出さないだろう。
……そういえば、前回の掲載では「食後のコーヒー一杯無料」とかとんちきなことが書いてあったな。コーヒーとラーメンが合うわけなかろうに。
客が憤懣を抱くのに、思い当たる節はいくつかあった。
牡蠣フライのトッピング。カフェオレラーメン。激辛地獄ラーメン。最近笑ったのは串焼きのネギマが乗った焼き鳥ラーメンだった。
ネタに走ったラーメンの数々が脳裏をよぎる。
少し前の号ではケーキセットまで作っていた。こうなると、もう何屋かわからない。
凡太郎は「そういう商売の仕方もあるんだろう」くらいにしか思っていなかったのだが、本当に受けなかったらしい。
「うちもラーメン専門誌を名乗る以上、いくらお金を積まれてもタイアップをお断りすることはあります」
編集員は苦々しげだった。
雑誌発売直後の反応はすさまじかった。
凡太郎は、十一時の開店と共に並んだ人々の行列に度肝を抜かれた。
バイト君もてんてこまいだった。
初めてラーメンスープがなくなるという事態になった。
午後は早々にのれんをしまって、バイト君には玉子と豚肉の買い出しに行ってもらった。
その間に秘伝のスープをこしらえる。
買い置きしていたスープの元があっさりなくなった。
配合の量を電卓で計算して、他の素材も入れる。
ご飯も炊く。
昼飯には、チャーシューの切れ端を油で揚げて青椒肉絲丼にして食べた。
揚げすぎた細切り肉は食感が面白かったので、晩飯のおつまみに出したらどうかな、などと考えた。
冷凍餃子は配達を頼まなくてもなんとか持ちそうだ。
仕込みが済んで一息ついていると、夜の部のバイトちゃん(女子大生)が来る。
その日は飲み客よりもラーメン目当ての客が多いというありがたい事態になった。
確かに酒の売り上げはありがたい。
しかし圧倒的に回転率が悪い。長っ尻の酔客が、必ずしもアテやおかわりを頼んでくれるわけではないのだ。店内は騒々しいし、飲みでない客は入りにくい。
そして、野球中継がある日には閑古鳥が鳴く。この寒暖差は飲食店にはつらい。
『ラーメン凡太郎』の店内にはテレビはない。流しているのは台湾の歌曲のゆったりしたCDだけだ。歌の意味はわからないが、中華の雰囲気は感じられる。これが「器でごまかす」というヤツだ。
雑誌の影響は、夜にもつづいた。新顔の一人客が多く、ラーメンと餃子と炒飯といったセットを頼む。凡太郎は黙々とラーメンを作り、中華鍋で炒飯を作り、平たい餃子焼き器で冷凍餃子を焼き続けた。
その日は過去最高の売り上げだった。
最後にはバイトちゃんもへとへとだった。
のれんを下ろしてから二人で祝杯を挙げた。
そこで、例の青椒肉絲の揚げすぎ肉をふるまった。
「おいしいです。ビールに合います。大将、天才です!」
凡太郎は、女子大生の食いつきっぷりに頬を緩めた。
しばらくして客足は落ちてきた。が、それでも昔の売り上げの一・五倍はキープした。何より新規客の定着が大きかった。
「ラーメン凡太郎」があるのは、駅から徒歩八分、古い商店街の一角だ。夜になると周囲の店はシャッターを下ろしている。決してよい立地とは言えない。それでもお客さんはわざわざ通ってくれる。とてもありがたいことだった。
そんなある日、凡太郎は真夜中まで店に残ってまな板を研いでいた。
荒い番手から細かい番手まで、三種類くらいの紙やすりを使う。たまにこれをしておかないと、まな板に傷が付いて雑菌の巣になるのだ。ついでに庖丁も目の細かい紙やすりで磨いておく。
横の路地にライトバンが止まり、何やらごそごそしている様子だった。
いつものゴミ屋さんかな、と思っていると、バンと扉を閉める音が響き、すーっと去って行った。
凡太郎は、裏口を開けて外をのぞいた。
街灯に淡く照らされた路地には、さっき出しておいた水色のゴミ袋がなかった。
……やられた!
凡太郎は舌打ちした。
店の味を盗もうと、誰かがゴミ袋を盗んだのだ。
けど、中身はほぼ生ゴミである。
野菜くずとチャーシューをくくったたこ糸の切れ端、それに使用済みのラップの類だ。味の決め手となる業務用スープのパックは、黒いゴミ袋に大切に保管してある。
凡太郎は、マー老師の用心深さに感謝した。