ラーメン凡太郎 その一
凡太郎は四十歳になった。
不惑の年というが、惑うことばかりだった。
このまま勤め人として残りの人生をすごしていいのか、そんな思いが大きくなった。
そんな折、大腸癌で入院していた母が亡くなった。
そして翌月にはマー老師の葬儀が続いた。
マー老師の葬儀は、中華街で盛大に行われた。
楽団が葬送の曲をかなで、紙銭がまかれる、古式ゆかしい葬儀だった。
驚いたのは、チアガールのような格好をした美女たちが楽団をしていたことだ。
日本のしめやかな葬儀とは真逆の、明るい雰囲気の葬式だった。
凡太郎は、そこで『大碗記』の跡地の買い取りをもちかけられた。
何度も店子が入れ替わり、入ってもすぐつぶれる縁起のよくない店だという。
「凡太郎さん、あなたには福分がある。生前から老師はいつもそう言ってました。あなたに買ってもらったら、とても繁盛する。占い師もそう言っていた」
なんだか怪しい話だった。
が、凡太郎はその話を受けた。
何より、破格の安さだったのだ。
凡太郎は、ボクサー時代の貯金を崩して思い出の店を買い取った。
飲食店を始めるには居抜きが一番、と言われている。
什器や設備を使い回しできるからだ。
凡太郎は、下町風の安っぽい椅子とテーブルを全て撤去し、日本のそば屋風のものに変えた。
メニューも、難しい中華料理ではなく、日本式の「ラーメン屋」にした。
焼きギョーザにチャーハン、つまみはカラアゲとザーサイ、そして老師直伝のチャーシュー。塩ゆで卵も置くことにした。
片手間で飲食店は経営できない。
凡太郎はレストランチェーンをやめてラーメン屋に専念することにした。
店名を「凡太郎」にしたのは、反骨精神からだった。
妻も子もない独り身の男が、栄光をつぶした世間に反旗をひるがえす、そこで掲げるのなら自分の名前以外にないだろう、という気概の現れだった。
仕入れには、レストラン時代のコネを最大限に使った。
瓶ビールはやめ、ビールサーバーを導入した。
食材は専門業者を使い、なるべくコストカットをはかった。
スープはマー老師の頃を再現し、流行りの辛口スープも取り入れた。
看板は、知り合いの解体業者が保管していた一枚板のカウンターテーブルを加工して作ってもらった。
そして出来上がったのが、平々凡々たるラーメン屋だった。
開店初日。
行列こそできなかったものの、ほぼ満席が続いた。
とくに十一時から二時くらいまではてんてこ舞いだった。
が、そこはレストラン経験のある凡太郎のことだ。
最初からアルバイトを入れて、大したミスもなく店を回した。
厨房に聞こえてくる、お客さんからの「おいしかったよ!」という声がうれしかった。
「鷹の凡太郎」の店だと気づいた客もいたようだが、そういう客は昔から『大碗記』に通っていたような地元客だ。過去には触れず、応援の言葉をかけてくれた。
そして数ヶ月がたった。
最初の頃の活況はおちついたものの、客足は安定して続いた。
そんなある日、ラーメン雑誌の取材交渉が来た。
「いかがですか」
雑誌を取り出して見せる。カラフルで、作る側も楽しんでそうな誌面だった。
「と、言われましてもねえ。うちはもう手一杯で、これ以上客が増えてもねえ……」
パラパラとページをめくっていた凡太郎の手が止まる。
そこに見たような顔があったからだ。
プロボクサーとして泣かず飛ばずだった吉田だった。凡太郎が入門したときに対戦した二人目だった。ちなみに、一人目に戦ったオタク君は、今ではソフトウェア会社を興して地元の名士になっていて、ジムの後援会にも入っている。
吉田の店は、元プロボクサー、ということを全面に出したつくりの店だった。
「やはりご存じでしたか。隣町の駅チカで店をされています」
「いやー、同業だったとはねえ。最近、つきあいがないもので、ははは」
いやな思い出がよみがえった。
最初の海外遠征で、美少女パブを紹介したのが吉田だったのだ。その時撮られた凡太郎の写真が、世間から叩かれる大きな要因となったからだ。
「よかったら、さし上げますよ。ぜひご検討下さい」
「え、ええ」
立ち上がりかけた営業を手振りで制する。
「あ、ちょっと待って。……この紙面の大きさって何か違いがあるんですか」
「ええ。こちらはタイアップ広告と言いまして、広告料をいただきつつ、編集部も全面協力をして作り上げた記事なんです。吉田さんの所には、いつもお世話になってます」
念のためにきいた広告料は、経営感覚のある凡太郎には絶対に出す気になれない金額だった。