転落 その三
魯迅は言った。「水に落ちた犬には石を投げろ」と。
凡太郎も同じような境遇に陥った。
海外遠征時の飲酒風景。
誰かが隠し撮りした写真を週刊誌に売り込んだのだ。それも何枚も。
そして、初の海外遠征時の少女パブでの風景。
そこは、十四、五歳の少女が舞台でトップレスでダンスして、気に入った娘がいたら奥に連れ込めるシステムだった。凡太郎も、試合後の解放感と、先輩の「おごりだから」という言葉に、うかうかと乗ったのだ。
そんな逆風の中、凡太郎をかばってくれたのは香奈とその母だった。
スポーツ紙のインタビューで、乱闘事件の真実を語ってくれたのだ。
しかし、テレビのワイドショーはそのことには触れず、凡太郎のスキャンダルを発掘して行った。
中学入りたての頃の喧嘩番長としての暴れっぷりが匿名の証言者によって暴かれた。
父親が名うての暴力団員だったこと、母の居酒屋がその組員のたまり場になっていたこと。
心象を悪くする事ばかりが拾い上げられた。
警察は、凡太郎を不起訴処分にした。
何より、腕の骨折という物証が効いた。
香奈と母親の証言からも、凡太郎に犯意がないことは明らかだった。
『大碗記』や所属ジムも事件の影響を免れえなかった。
凡太郎推しの店として一時ははなやかだった『大碗記』も、精彩を失った。
台湾人ばかりが集まる店になり、やがて空き店舗となった。
ジムのオーナーは、不祥事を謝罪し綱紀粛正を誓った。
その中でスポーツ新聞が取り上げた一言がちょっとだけ話題になった。
「グラブの中に藁が詰まっていた時代にはこれでもよかったのでしょうが、もはや今では通用しない事です」
教授は一命をとりとめたが、依願退職を余儀なくされた。さすがに暴力事件は許されなかったのだ。
凡太郎と香奈の子はこの世に産まれることはなく、水子として流された。
一家は屋敷を売り、そのあとには何軒かの建売住宅が建った。
凡太郎は、半年間のニート生活の後、ジムオーナーの口利きで飲食店の仕事にありついた。
創意も工夫も必要のない、ただのレトルト食品を温めるだけのレストランだった。
それでも、気晴らしにはなった。
普通の人々の間に入り交じって働く凡庸な生活。それは、「凡太郎」と名づけた母親が望んだ普通の生き方だった。