転落 その一
凡太郎は、久しぶりに大碗記ののれんをくぐった。
海外遠征の帰りだった。
「老師、お久しぶりです」
「おう、凡太郎。よく帰ったな」
去年より白髪が増えたマー師匠が、満面の笑みで迎えてくれた。
店の内装は一新され、壁には額に入った凡太郎の新聞記事がたくさん掲げてあった。
凡太郎が、いろんな取材でおすすめの店として紹介した成果だ。
「フーヨーハイ麺、お願いします」
「あいよ! フーヨーハイ麺、一丁! ……おっと、午後の営業はこれでラストね」
マー師匠はテーブルに水の入ったコップを置くと、表ののれんをしまいに行く。そして、引き戸に鍵をかける。他の客が入ってこないようにだ。
有名人の凡太郎は、盗撮されたりサインをねだられることも多い。それはわずらわしかろうとの配慮だ。
「遠征はどうだったね」
「しこたまやりあいましたよ。あー、今でも脇腹が痛いや」
凡太郎は、いつもの紹興酒をおちょこ一杯だけ頼む。
フーヨーハイ麺が届く。丼は昔のままだ。
「……味、変わりましたね。八角を減らしたのかな。何だろうな、何か上品な味だ」
「そうそう。万人受けのする味に変えた。あとで厨房見てくといい。驚くぞ」
食事を終えた凡太郎は、器を持ってピカピカになった厨房に足を踏み入れた。
そこの内棚には、業務用の有名調味料メーカーの一・八リッターパックが並んでいた。
「朝の仕込みがつらくなってな。食品フェアでおいしいの見つけて、組み合わせて使うことにした。おかげで味がよくなったと評判だ。今まで何時間もかけて野菜や鶏ガラを煮込んでいたのがアホみたいだ」
「へーえ」
ちょっと意外だった。
「ガス代、節約。水道代、節約。大助かりだ。ただし、チャーシューだけは譲れない。店で仕込んでいる」
見れば、大鍋にたくさんのチャーシューが入っている。凡太郎は、懐かしい光景にほっとした。
テーブルに向かい合ってすわり、酒をくみかわす。珍しく二杯目だ。
マー師匠は、とっておきのメンマと鹹蛋を出す。
四方山話がつづく。
海外の話はマー老師には何よりの土産なのだ。
「そうだ、お土産です。向こうで食べておいしかったので買ってきました」
凡太郎は、荷物の中をひっかきまわす。
そんな時、老師は唐突に言った。
「お前、結婚しろ」
「え? な、なんっすか、突然」
「占い師、言ってた。お前、今年は結婚の年。早ければ早いほどいい。彼女と早く結婚しろ」
「ははは…… まいったなあ」
実のところ、凡太郎には彼女がいた。中学の後輩で、高校生になったばかりの子だ。ただ、相手の親がまずかった。大学教授で、彼女に聞いた情報ではとても世間体にこだわる人のようだった。いくら東洋チャンピオンだといっても、ボクサーや自営業者は社会人として認めないタイプだという。
「拳師の寿命は短い。寄り添ってくれる人、必要」
「わかりました。考えておきます」
凡太郎は師匠に頭を下げた。
実のところ、凡太郎は性欲をもてあましていた。そこで、ムラムラがたまると、彼女に会えない土地ではプロの店でしずめてもらうことにしていた。
それはジムの方針でもあった。
体力が落ちれば試合にひびく。プロボクサーたるもの、常に自制を!
まして、戦績が落ち目の今、マー師匠の言うような結婚など論外に思えた。