第2話
目が覚めると、白い天井と壁の境に施された木製の飾り細工が目に飛び込んでくる。そこは実家のベッドの中だった。あの王宮の天井の、目新しく塗られた金色の塗料や、目を見張るほど大きくて豪華なシャンデリアはそこには無い。ぼーっとそれをしばらく眺めていると、扉をノックする音がする。返事をすると、扉から入ってきたのは懐かしい顔だった。
「マリア!」
私が小さな頃からこの家に住み込みで働いているメイドのマリアは、私が最も信頼する人間の一人だ。学園で上手く馴染めずに度々泣いていた私をいつも慰めてくれていた。10歳年上の彼女は私にとって、姉の様な存在であった。
私が実家であるユンヴィ公爵家で暮らしているという事は、私が王宮へ召される前・・つまり学園に在学中かその前ということになる。本当に人生をもう一度やり直すというのだろうか。それとも────ユリウス殿下に殺された記憶も、女神シルフィ様とのやり取りも、全てが悪い夢だったのだろうか。
「まぁまぁ、そんなに驚かれてどうされたのですかクローディアお嬢様。緊張で怖い夢でも見ましたか?」
マリアは見慣れた優しい笑顔を私に向けた。
「緊張って、どうして?」
「だって今日はブリタニア王立学園入学の日ではありませんか」
え────。
「・・そう。今日だったかしら・・」
「まぁお嬢様、寝ぼけておいでですか? ご婚約者のユリウス殿下もご一緒なのですもの。さぁ、制服に着替えて準備を始めなくては」
マリアはクローゼットから真新しい制服を出したり髪を結う道具を用意したりと忙しなく動き回る。いつもよりなんとなく気合いが入っている様に思えるのは、多分気のせいではなく、登園初日であるからなのだろう。
(・・前の記憶でもそうだったものね・・)
この記憶が夢なのか私の妄想なのかは分からないけれど・・とにかく私は今日から二年間、あの学園で地獄の様な日々を過ごさなければならないらしい。
「・・・・はぁ・・・・」
◆◇◆◇◆◇
その人の姿を見た時、全身が思わず震えてしまうほどの恐怖を感じた。
「きゃぁ、あれがユリウス殿下!?」
「うそぉ! あんなに素敵な人だと思わなかったわ」
隣を歩く女学生達の黄色い声。確かにユリウス殿下は見目麗しい。この国では珍しい、漆黒の髪と瞳は濡れた様に艶めいて、妙な色香がある。
しかしとても、冷たい印象を持つ人だ。王太子である彼に取り入ろうと、男女問わず多くの取り巻きが常に彼を囲んでいたのだが、その中で笑っているところなど一度も見た事がない。それはユリウス殿下の複雑な生い立ちに起因するものであるのかもしれない。
ユリウス殿下は第一王子として生まれ、王太子として育てられた。しかし六歳の時、国の事情で隣国の王族の姫を迎える事が決まり、殿下の母君は離縁され殿下自身も王太子位を剥奪されてしまったのだ。王陛下の温情から命は奪われなかったものの、二人は王宮の外れの粗末な離宮に、まるで捕えられるかの様に監禁された。それからゆうに七年もの間、彼は狭い離宮の外へは一歩も出る事を許されず、衛兵の監視の下、まるで罪人の様に過ごしてきたのだった。私の記憶が確かならば、確かお母上は三年前に亡くなられ、葬儀すら執り行われなかったと聞く。
しかしそれは一昨年の事であった。陛下と新王妃殿下の間に生まれた王子が流行り病で命を落とすと、ユリウス殿下は再び王太子として冠を被らされる事になった。まさに国の事情に翻弄される幼少期を過ごされたのだ。
あれはいつの事だったか────父について王宮へ来ていた幼い頃の私は、幼馴染のオーウェン達と王宮の裏手に広がる林の中で遊んでいた。そして駆け回るうちに、ユリウス殿下の囚われた離宮の脇に差し掛かった。脱走を防ぐためであろう。窓に嵌められた鉄格子の奥から外を覗く、黒い瞳が動いたのを見て、ゾッと背筋を寒くしたのを覚えている。
それからすぐ、離宮を守る衛兵に見つかって私たちは追い払われた。だけど私はあそこから覗く黒い目がどうしても気になって父に尋ねたところ、初めてユリウス殿下の話を聞いたのだ。幼かった私にとって、それは衝撃的な話であった。同じ歳の王子が、あの牢獄の様な離宮に閉じ込められている・・。私はその後、王宮に来るたびにこっそりと忍び寄り、あの鉄格子のかかる窓の縁に、摘んだ花を置いた。外に出る事すら許されない王子殿下の御心を、少しでも慰められる様にと。
私はあの黒い瞳が恐ろしい。死の苦しみと共に記憶にこびりつく、私を貫いた憎悪に歪む黒曜石────。
ユリウス殿下の視界に入らぬように、自然と足が歩みを遅くする。しかしその時、だいぶ前を歩いていたユリウス殿下が、小さく後ろを振り向いた。
咄嗟に下を向いたけど・・
あの黒い瞳が、私を見ている様な気がした。
「クローディア!」
入学の式典を終え、早速授業が開始された。昼食時にカフェテリアへと向かって歩いていると、後ろからかかった明るい声に気づいて私は振り返る。元気よく手を振りながら駆け寄ってきたのは幼馴染のオーウェンだ。セルランド公爵家の三男坊である彼は、明るい性格で面倒見が良く、年は私の一つ上で本当の兄の様な存在だ。
「入学おめでとう! 何かわからない事があったら力になるから遠慮なく俺に聞いてくれ!」
オーウェンは私の頭を力強く撫でて、一つ年長の威厳存分に胸を張って見せた。その屈託の無い仕草に私は暗い気持ちを少しだけ高揚させる。彼の裏表の無い明るさには何度救われてきたか分からない。私は彼に心からの礼を述べた。
「ありがとう、オーウェン」
「そういやクローディア。ユリウス殿下にちゃんと挨拶はしたのか?」
ぎくっ。怖すぎて後回しにしてた。
「い、いえ・・これから伺うところよ」
オーウェンはわかりやすく私に白い目を向ける。
「お前なぁ・・もう昼だぞ? お前の性格じゃ話しかけ辛いのはわかるが、一言挨拶しておかなきゃまずいだろ。婚約者に決まった時の顔合わせ以来だろう。気まずいなら俺が付いていってやろうか?」
「だ、大丈夫だってば。お見かけしたらお声掛けするから」
「あ、そ。それなら丁度いい。ユリウス殿下のお目見えだぞ」
────え。
私は慌てて、オーウェンの視線の先を追って後ろを振り返った。そこには今日も多くの取り巻きに囲まれてこちらへ歩いてくる、ユリウス殿下の姿があった。
ユ、ユリウス殿下・・
殿下のあの、温度の無い黒い瞳と目が合った。
ここから無視する訳にはいかない。逃げてはいけない事はわかっている。
「おい、クローディア!」
オーウェンが私を急かして腕で小突く。だけどどうしても恐ろしくて・・足が動かない。
その時だった。私は視界の隅に、妙なものを見つけた。それは四角だった。その中に「心を読む」という文字が浮かんでいる。一瞬看板かと思ったが、私が視線を動かすとそれは当然の様に一緒に動くのだ。まるで眼球に直接落書きしたように、その文字はぽっかりと空中に浮かんでいる。
────な、何これ・・?
恐怖でついに、頭がおかしくなったのだろうか? 困惑する私の脳に、女神シルフィ様が夢の中で言った言葉が閃いた。
『アンタに心を読めるチートを授けてあげるわ!』
・・ん?
「もしやこれ、チート・・なるものでしょうか・・?」
あ。この四角押せるわ。。
「何ブツブツ言ってんだよクローディア! 行っちまうぞ! ・・ユリウス殿下!!」
私の様子に堪りかねたオーウェンは、殿下に向けて声を上げた。一歩踏み出すと跪き、胸の前で手を組んで礼をとる。
「恐れながらユリウス殿下、私はセルランド公爵家の三男、オーウェンにございます。夢は近衛隊に入隊し王家の皆様をお護りする事! 以後どうぞお見知りおきを!」
熱血的に挨拶をくれたオーウェンを、ユリウス殿下のあの黒い瞳が見下ろした。相変わらず冷たい、感情の抜かれた様な表情で。だけどその時、私の脳に直接響くかの様な振動と共に、人の声が響いてきた────。
【オーウェン・セルランド────相変わらず忌々しい】
────え?
【誰がお前を近衛になどするものか。クローディアが俺の婚約者になってなお、彼女の周りを彷徨こうと言うのか。本当は殺してやりたいところだが、公爵家筋ではそう簡単にはいくまい。しかしそれが叶わずとも、必ず辺境のどこぞへとばしてやる】
・・・・ええ??
【俺のクローディアに馴れ馴れしく触れるなど、万死に値する。必ずお前達の仲を裂いて、二度と会う事など出来なくしてやるからな・・!】
「────えぇぇぇぇぇ!?」