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15 王子様は元聖女様に殴り込まれる(ソロバン)

 我が妃アリシアが執務室にやってきた。滅多にないことなので(いぶか)ると、


「侍女たちが給金に不満を言い募っています。過去1年分の計算書を見せてください」


といささか怒気を含んだ声をぶつけてきた。どうも特別な出勤や残業に対する手当の計算がおかしいということのようだ。早速、側近に書類の束を持ってこさせた。該当する人数は20人ほどだろうか、一か月毎の数字がビッシリと並んでいて、見るだけで頭が痛くなる。

 妃は、我が執務机の上に置かれていた線引き定規を左手に取ると、書類の上に載せてずらしながら、口では呪文のようなものを唱えつつ、右手の親指と人差し指を動かしだした。ところどころにペンでチェックを入れている。12か月分を10分ほどで見終わった。


「これだけで、100か所も間違っていたわ。何をやらしてるのよ。まあ、想像はしていたけど‥‥。すぐに不足分を支給してちょうだい。過払い分は不問よ。別の人間にダブルチェックをさせなさいよ。

 これだと国家予算も危ないわね。横領が頻発しているかもね」


 横領云々はさておいて、早速側近に確かめさせると、指摘通りだった。妃の頭はどういうカラクリなんだ。


「右手で“ソロバン”というものを弄っていたの。透明で見えなかったかしら? そう、私、魔法が使えるの。‥‥冗談よ」


 ソロバンは実態のある計算道具だという。実家にいた頃、前世の記憶を頼りに1丁を特注したら、馬車1台分もの費用が掛かってしまった。その試作品は現在、父親と番頭が使っているらしい。でも、動かす(たま)の滑りとか、使い勝手が悪くて、自分はもっぱら“エアー”ソロバンに頼っている。慣れると、無くてもあたかも有るがごとくに使えるらしい。是非見たいと頼んで、持ってきてもらった。


 妃の父親によれば、「すこぶる便利。娘は、私の使い方がぎこちないというが、筆算よりもはるかに速くて正確だ。もう手離せない。お貸しすることはできない。このまま持って帰る」という。


 うぅぅむ。なんか不思議な形だ。知らなければ幼児の玩具のようでもある。原理は直ちに分かった。1日もあれば曲りなりにも足し算が可能となり、1週間後には引き算も不自由無くできるようになるという。訓練によって技術はどこまでも向上していき、掛け算と割り算を含めて数年で神業のような速さと正確度を獲得することもあるらしい。

 妃によれば、この世界で実現するためには、2つの障害があるという。一つは道具のソロバンで、満足な性能のものを作り上げるには固い素材と高度な加工技術が要る。もう一つは操作する者の教育で、幼少時に九九という掛け算を暗唱させたうえ、ソロバンの反復訓練が必要なんだと。前世に生きていたニホンという国ではすべての初等学園で加減算までは履修させていたというのだから恐れ入る。


「一商家の力では無理だけれど、国を挙げて取り組めばできる。ただ、それなりに覚悟してね。以前にうかがった学制改革が進んでいれば、追加するのは難しくはないかも」


 うっ、痛いところを突かれた。初等学園と師範学校の学費無償化などを進めることができていないのだ。税収が足りない。国民に借金をしようかとも思うが、そんな金、だれも蓄えているはずがない。諸外国から借りるのは外交上、危険だし‥‥と、悩みは尽きない。

 とりあえず、ソロバン自体と訓練カリキュラムを開発することにしよう。ソロバンがいくつかできたら王子財団から販売して、大蔵卿の部下に使わせるのが手っ取り早いかな‥‥などと考えた。


 で、妃に問われた。「この世の中で“対数”という概念は知られているかしら」と。この原理でできた計算尺を使えば、乗除計算が一発だという。ただし、誤差を含むから経理には使えない。対数を学者に問うたけれど、不知とのことだった。前世で妃はどんな教育を受けたんだろう。


         ◆


 妃は年に数回、神殿へ呼ばれて新任の聖女たちに話をしている。単に経験談を披露しているだけというものの、全員が妃に憧れて応募したのだから、効果は絶大だろう。神官長の求める聖女像は過酷ゆえ、モチベーションを維持するには、それなりの教育が必要になのだ。極論すれば洗脳に近いかもしれない。

 それを思うと、妃が任期だった5年もの間、自らの意思で行動していたことに、今さらながら驚愕する。それなのにオレは、彼女を王宮へ取り込んでしまった。この点は後悔というか、慚愧(ざんき)の念に堪えない。(おのれ)が欲望の対象にしてしまった。王室の後継を設けるための手段にしてしまった。

 もちろん王太子妃となってからは、王宮内の組織を縦横無尽に運営し、貴族の奥向き連中の動きも完璧に把握してくれている。母上=王后の後継者たる地位は既に盤石だ。とても平民出身者とはみえない。でも、これだけで、よいのだろうか。彼女は満足しているのだろうか。その能力を十分に生かしているのだろうか。


 そう、妃の知恵や見識を存分に生かすことは、オレの役割だ。オレにしかできない仕事なのだ。当然、二人だけの時間を設けて、様々な事柄を話し合おうとするのだが、これがままならない。こちらは、ちょっとしたことでも助言が欲しいし、背中を押してほしいと思うのに、会うこと自体が難しい。唯一の機会は、ベッドの上だ。お互いが多忙で疲労困憊の連続だから毎晩というわけではないけれど、ここなら邪魔が入らない。油断をすると直ぐに(まぶた)が重くなるので、メモを持ち歩いて、相談事項とその結果を書き留めることにしている。

 学園で特別講義を行ってほしいと頼んだのは、そんな中での話だった。主に前世の記憶にあるニホンという国の成り立ちだ。我が国の次代を担う行政官の卵にとって、国家運営の先例となる話は、たいへんためになる。とくに失敗事例が重要だ。妃の解釈が面白い。斜め上からの歴史だ。必ずや若者たちの(かて)になることだろう。これこそ、妃を活かす道ではないかと考える。部下に講義録をまとめるようにとも命じた。


 そのような生活の結果として深夜労働が(おろそ)かになったのは本意ではない。父上と母上が我々二人に仕事を押し付けつつあることが大きな原因だ。王族がすべての決定に関与する必要はないのだし、権限を分散して相互監視させる仕組みづくりを痛感する。絶対王政は無理だ。理想は、妃が言うように立憲君主制だ。当たり前だが、個人的な欲求で組織の在り様を変えようというのではない。私的な思惑など微塵も含まれていないと断言しておこう。

2022-03-16 投稿

 算盤を英語でabacusといい、古くはメソポタミア、その後、ギリシャ、ローマで使われ、近代ではロシアをはじめとした東欧や東アジアで普及したとのことです。ただし、西欧や米国は不明で、どうやって計算していたのでしょうか。筆算では遅くて間違いが多いはずです。昔はコンピューターや電卓が無かったわけですから、我が国の高度成長期の原動力はソロバンだったのかもしれません。

 ソロバン塾へ通っている小学生に現物を見せてもらいました。なんと、ゴハサンをボタン1つでする“ワンタッチ・ソロバン”でした。


 “特別講義”の中身については、17~19話をご覧ください。

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