前編
形だけの勉強机。
そこに頬をくっつけながらも一応、テスト範囲にあたるページを眺める。
新品じゃね?とダチによく言われる教科書には折り目ひとつない。
毎度、テストの度に思う。
ちっとは真面目に授業を受けてりゃ良かったなー、ってさ。
まあ、期間が過ぎれば、そんなことを考えていた自分なんていなくなる。
そんでもって、忘れた頃にまた後悔する自分が登場するんだよな。
頭ではわかっていても、ギリギリまではやる気ゼロの男。
それが沢渡克也。
つまりは、おれのことだ。
「ねみー」
眠気覚ましに用意した氷水が入ったバケツ。
そこに足を突っ込み、チャプチャプと音を立てながらかき回す。
このやり方は一年中有効なおれなりの睡魔対策だ。
とは言ってみたけど、実際はあまり役に立っていない。
夏はすぐに氷が溶けて温くなる。
冬は冷たくて、つま先ですらつけるのもつらい。
単なる気休めじゃんか。
ダチからもそう言われる欠陥だらけのーーーそんでも自慢の対策だ。
時計を見るも開始から二十分も経っていない。
何だかガッカリした気分になる。
時間の経過=勉強した時間。
……なんて、おれの場合、そこはイコールにはならない。
だけど、過ぎた時間だけやり遂げたような気がするからOK。
「便所行くか」
許可なんて必要ないのに呟いてみる。
バケツから足を出して、拭かずにそのまま便所に向かった。
歩く度にペタペタと水が廊下に張りつく音がする。
大して気にすることもなく、姉貴の部屋の前を通過する。
瞬間、タイミング悪くドアが開いた。
危うく顔面をぶつけそうになる。
心臓が一度、バクンッ、と大きく鳴った。
「っぶねーだろ!!おめー」
姉貴を睨む。
姉貴もまた睨んできた。
ちっとも怖くない。むしろ、それは変顔に近い。
不細工な顔がより際立って笑いそうになる。
「年上に向かって〝おめー〟って何よ」
時間帯が夜中ってのもあってか、小声だ。
迫力が全くない。まあ、いつもないけど。
怒る姉貴に従っていた時代は、小学校にあがると同時に終えている。
「おめーで充分だろ?引きこもりのくせに態度でけーんだよ!」
おれはいつもとなんらかわらないトーンで返す。
シンッ、と静まり返る家の中でおれの声がやたらと大きく聞こえた。
『引きこもり』。
この単語を出せば、姉貴は何も言えなくなる。
てかさ、偉そうにすること自体、おかしいだろ?
「一日中、家にいるだけのくせにな」
姉貴はうっすらと涙を浮かべる。
そのまま、無言でドアを閉めた。
部屋の中から微かに泣き声が聞こえてくる。弱い人間だな。
おれはバカ高と呼ばれるところに通っている。
だけど、ニートになるつもりはない。
こういうのも反面教師とかって言うのかね。
姉貴に完全勝利したのが気分がいい。
一生そこでぐずってろ。
今すっげーハマっている歌を歌いながら姉貴の部屋を離れた。
その際、小さくくぐもった声が聞こえた。
はいはい。無視無視。
どうせ、『濡れた足で歩き回らないでよ』とか『お母さんに怒られても知らないんだから』とか、そんなどうでもいいことだろ。
「はあー、たりぃ」
出すもん出してすっきりした。
それだってのに、部屋に戻ればまたテスト勉強。
やってらんないね。
そのイライラやモヤモヤを解消しましょーかね。姉貴で。
「将来のためにおれは勉強しなきゃなー。どっかの誰かさんみたくは絶対なりたくねーしなー」
姉貴の部屋の真ん前で、わざと大きな声を出した。
ガンッ、と何かがドアにぶつかる音がした。
反撃のつもりか?小さっ。
引きこもりのくせに生意気。
でもまあ、これ以上やると暴れ狂うからやめておこう。
面倒くさいし。
自分の部屋に戻る頃には、すっかり足は乾いていた。
またすぐに濡れるけどな。
勉強机に戻り、億劫な気持ちで教科書を開く。
ページをめくろうとした手を止める。
微かに人の声がする。
妙に明るい男と女の声だ。
耳をすませば、声の…いや音の正体か。
それがラジオからだとわかった。
『リスナーのみんな!番組もいよいよ佳境に入ってきたね!ここからさらに盛り上げていこう!!』
『今回の彼は果たして有罪~?無罪~?みんなからの電話、ファックス、メールを待ってま~す♪』
ラジオパーソナリティーが宛て先やらを紹介している。
その間も音の発信源を探していた。
どうにも感覚がつかめない。
おれの部屋から聞こえてくるようでもあり、外からのようでもある。
「…あ」
これは姉貴の部屋からか?
これも反撃しているつもりなのか?
おれの部屋にはオーディオ機器の類いは一切ない。
番組の進行と共に怒りのボルテージもあがっていく。
「あーあー、そうきたか。そうきますか!」
机にあるものを全部、床へと落とす。
イラついてイラついて仕方がない。
足音なんて気にせず姉貴の部屋に向かった。
ダンッ、と強くドアを叩く。
返事はない。ムカつく。
「ラジオ!!うるさいんだけど!おれはおめーみたいに暇人じゃねーんだよ!」
声を張り上げた。それでも反応はない。
相手が泣いていれば少しは心は落ち着くのにな。
仕方ないな。許してやるかってなる。
でも、開き直っていると思うとムカついてくる。
はい、プッチンしました。
ドアをぶち壊してやろうと片足をあげた。
『は~い♪リスナーのみんなからの判決を待っている間に〝今日の○○さん〟のおさらい、いっきますよ~ん♪』
妙に明るく弾んだ声がする。
やっぱり、姉貴の部屋からだったのか。
振り上げたままだった片足をゆっくりとおろす。
「おめーみたいなやつはいいな。そうやって嫌がらせを楽しむ時間があるんだからよ!!」
ドアがほんの少し開いた。
そこから青白い手が伸びてきた。
手には小型のスピーカーが握られている。
そこからは明るい音楽が流れている。
「おめー…」
「かっちゃんが悪いんだから」
「気色わりー呼び方すんじゃねーよ!」
おれが成長して〝姉貴〟と呼ぶようになっても姉貴はかわらずに、おれを〝かっちゃん〟と呼ぶ。
マジでやめてほしい。
カッコ悪いうえにバカにされているようで気分が悪い。
『なんと、なんと、なんと!!!今日の彼はバスの中で通話していたんだって!マナー違反だよね!最低行為だ、これは!!』
そんなやつ、どこにでもいるだろうが。
大袈裟に言いすぎだ、ボケ。
心の中で答えつつ、スピーカーを取ろうとした。
その瞬間、ものすごい勢いで引っ込められる。
ガンゴンとぶつかる音がうるさい。
そのまま、ドアまでが閉まりそうなる。
片足を突っ込んで阻止した。
「っ、いってぇー」
角の部分に足の小指をおもいっきりぶつけた。
情けない声が出てしまう。
『おやおや?大丈夫かい?しかして今のは罰としてカウントされるんでしょうか?』
『バス内でのマナー違反に対する裁きか否か?しかし、しか~し♪彼には他にも余罪があるんですよね~♪』
ジンジンと痛むものの足を引っ込めなかった。
家族とはいえ、バカにされたくないからな。
それにしても、ラジオパーソナリティーの喋り方や妙なテンションがムカつく。
全てがウザイ。
「ラジオ、消せよ!」
「ダメだよ、かっちゃん。参加者は途中退場してはいけないルールなの」
「意味わかんねーし!おめーさ、マジでムカつくんだけど!消えてくんない?今すぐさ!」
『聞きましたか?リスナーのみんな!!』
『実のお姉さんに対して、な~んて酷いことを言うのでしょ~きゃっ♪』
思わず「あぁ?!」とラジオに反応してしまった。
たまたま、こっちの状況とシンクロしたに過ぎないのに。
どいつもこいつもムカつく。
姉貴はドアを閉めようと、グイグイとおれのことを押してくる。
力の強さもこっちのが上なのに、ご苦労なことで。
こんな夜中に!
しかもテスト期間中に!
バカバカしいことをやっているな、と自分でも思う。
人間、引き際が大事でこれ以上バカやってんのも時間のムダだな。
まんまと姉貴の嫌がらせにハマった自分が情けない。
目には目をって感じで仕返しはいつでもできる。
「じゃーな、根暗さんよ!」
足を引っ込めると同時に勢いよくドアが閉まる。危ねー。
「かっちゃんが……もう知らないんだからね」
「あーはいはい。さよーならー」
すっきりしないまま、部屋に戻るとラジオの音量が明らかに大きくなっていた。
違う。
これは姉貴の部屋からじゃない。
おれの部屋からか?
人が便所に行っている間に、勝手に入ってきていたのかよ?!
見つけたらブッ壊す。即効ブッ壊す!
テスト勉強ができないのは姉貴のせい。
赤点取ったらどうすんだよ。
全部、全部、全部!姉貴のせいだ!
「クソ!バカにしやがって!」
ラジオは何かに当たったのか、ボリュームが大きくなった。
どこに隠した?
本棚の奥?またはその上か?
ベッドの下か?探しまくる。
『早速、メールが届きました!おぉ!今回もすごい量です!ではでは!読めるだけ読んでいきますね!』
あー、うっせー。
ベッドの下はマンガやらごみが散らばったままだ。
埃もすごい。
お袋が遠慮してか、そこは掃除していないからな。
妙なところで気を遣われてかえって不快な気分になる。
今どき、ベッドの下に……なんてパターンはねーよ。
と思いつつ、グラビアアイドルのポスターを見つけてしまった。
まあ、これはギリOKということで。
ベッドの下にあったせいか、グチャグチャに折れ曲がっている。
顔の部分が破れていて、口許が笑っているのが、かろうじてわかるぐらいだ。
『ラジオネーム〝執行人X〟さんからで~す。この方は今回の情報提供者でもあるんですよ~♪』
センスわりー名前だな。
もうちょいマシなペンネーム、考えられなかったのかよ。
『わたしはあいつを許さない。あいつは、このわたしをふったから』
破れかけのポスターの口が、突然、ラジオの声に合わせて動いた。
「うおっ!?ってぇえぇーーっっ!!」
ベッドの下に頭を突っ込んでいる状態だった。
だから、突然のことに頭をぶつけてしまった。
あとから地味にやってくる痛み。
かなり強く打ちつけたみたいだ。
ジンジンと広がるような痛みだ。
おれはゆっくりとベッドから頭を出した。
「あー、クソ」
『わたしは…わたしは!!絶対にあいつを許さない!』
ラジオから聞こえてくる声は女にしては低く、強い恨みを感じた。
嫌だね。
ふられた理由を相手のせいにして、自分が悪かったとかも一ミリも考えない女とか。
「性格ブス」
『悪かったわね!!』
「は?」
思わず反応してしまった。
自分に対して言われたのかと思った。
手にポスターを掴んでいることに気づく。
グラビアアイドルの口許は動かない。
いや、それが普通なんだけどよ。
さっきのは気のせいだよな。