血鏡~願うなら~第4話
職場に着くと、出勤していたスタッフ達が慌てて館内を速足で通りすぎていく。
走ってはいけない館内にしては、ドタバタと響いている。
「どうしたんですか?」
「豊岡さんが急に倒れて、救急車で運ばれたの」
「えっ?」
詳しく聞いてみると、美術品を管理しているスタッフの1人と夏生さんが団体客の相談をしていると突然、夏生さんが首を抑え倒れた。
倒れた夏生さんの首には赤紫の線が浮かび上がり、救急車が到着した頃には消えていて、今も意識不明。
「夏生さんの家族には?」
「連絡はしといた」
「困ったよ。豊岡さんって頼りになるから、開館前に展示物の埃残りがないかのチェックとかしてもらってたんだよ」
1人の男性スタッフが、チェックリストを見せて言った。
夏生さんのフロアリーダーの分だけでも凄い量、考えるだけで今の慌てるスタッフ達の理由が分かる。
「私も。書類の抜けてる部分が無いか見てもらってたんだよね。元館長が怖かったから」
「父が厳しくても、私は大丈夫ですよ。注意はしますがね」
「あっ、館長 おはようございます」
美術の学芸員と話していると、館長がやって来た。館長の手には、夏生さんのだろうチェックリストのボードを持っている。
「豊岡くんが倒れたようだね。富岡くんの担当分の殆どは、私がやろう」
「そうなんです」
館長も心配している、それほど私たちは夏生さんに頼りきっていたことになる。
無事に仕事を終え家に帰ると、両親は出掛けていて家に居なかった。 店を早くに閉じて真弓くんの家に行ったのだろうか?
そう思い母にメールを送ってみると、暫くして父から電話がかかってきた。
「えっ?真弓くん、入院したの?」
『そうなんだ。尋ねてみたら苦しそうにしていてな、医者に聞いてみたら原因が分からないそうだ』
父が言うには、真弓くんの住むアパートを尋ねてインターホンを鳴らした。一向に出てくる気配はなく、出掛けたのかと携帯に電話をしてみた。
着信音は家の中から聞こえ、心配になった母が大家に事情を話し開けてもらうと、苦しそうに倒れていたそうだ。
そのあとが大変だったそうで、倒れる真弓くんを見た母がパニックを起こし、叫び、泣き出し、真弓くんから離れようとはしなかったらしい。
母は今、落ち着いて病室で寝ている。携帯に表示された名前が私だと気付いた父は、私に電話をしてきた。
「真弓くんの両親には連絡した?」
『したんだが、日本に帰って来れないらしい』
「そっか、真弓くんの両親は海外に住んでるんだっけ」
『それでな…、夕食は適当に食べてくれないか?朝食も』
「うん、分かった」
通話を終えた私はリビングのソファーに携帯を放り投げ、もたれるように座って息を思いっきり吐いた。
聴こえた父の声のトーンから、母は今夜は帰ってこないだろう。もしかしたらカウンセリングに病院通い、酷ければ食事をしなくなり入院だろう。
母は15年前から心を壊してしまっている。
その事を知っているのは父と私だけ、真弓くんは知らない、気付いてはいない、気付かせてはいけない。
「千里、ごめん」
誰も母を救うことは出来ない。
いや違う、私も父も壊れたままなんだ。だから母の行動に見向きもしない、好きなようにさせたままなんだ。