発明家の毒薬
深夜に帰宅した女は、おやと首を傾げた。こんな時間にもかからわず、部屋から明かりが漏れていたからだ。
(まだ起きているのかしら、あいつ)
いつもなら夫は寝ている時間帯だ。珍しいこともあるのだな、と思いつつ部屋の扉を開けた。
「おかえり」
案の定、夫はソファーに腰かけてグラスを片手にしていた。
「飲んでいたの? 珍しい」
「そういう君だって、外で飲んできたんだろう」
それは、半分正解で半分外れ――お酒は嗜んだが、別の男に貢いできたと言った方が適切だった。しかし、そんなことを夫は知る由もないだろう。良く言えば純真、悪く言えば間抜けと評することができる彼は、女にとって都合の良い存在なのだ。
「そうよ。仕事の帰りにお友達と会って、飲んできたの」
悪い? とでも問いかけるように微笑むと、男は「いいや」と首を振った。まあ、働いているというのも嘘だが。
男は若くして発明家として成功し、莫大な財を成した。しかし、奥手なのか女に興味がないからなのか、ずっと独り身だった。たぶん、前者だったのあろう、と男は思う。七十を過ぎてから恋をした。いや、二十代の美しい女性に愛を囁かれれば誰だってそうなるだろう。男は初恋の熱に浮かされ、彼女と結婚した。当然その女が、単なる財産目当てであることも気付かなかった。
「僕もたまにはと思って飲んでいたんだけど、君も飲むかい?」
そう言っては、新しいグラスを用意した。
「頂くわ」
女は、骨と皮ばかりのミイラと飲みたいだなんて、これっぽちも思っていないが、そこは遺産相続のため、男が早死にするのを祈りつつ、愛想よく振る舞わなければならない。グラスを受け取った。
「あら美味しい。なんてお酒なの?」
それはとても美味しい酒だった。男が酒に凝っているとは聞いたことがないが、金に物を言わせて名酒を手に入れたのだろうか。自分でも買ってみようかしら、なんて結局は男の金なのだがそんなことを思う女だった。
「これはね、僕の新発明なのさ」
「お酒が発明品なの?」
男の目が悪戯っぽく笑う。男の発明品はいくつか知っているが、今度のは美味しいお酒の作り方か何かかしら、等と当たりを付けていると、「僕は、それを一度も『酒』だなんて言っていない」と男は言った。酒じゃない? じゃあ、これは一体何なのか、女は当惑した。男は、その様子を楽しむかのように一しきり眺めた後、勿体ぶって言った。
「それを飲むとね、十年後に死ぬんだ――つまり、それは毒薬だよ」
男は余計にニヤニヤして、女を眺めている。
「そんな、嘘よ。どうして……」
女は思考がまとまらない。最初は冗談でも言われているのかと思ったが、そうではないらしい。毒を盛られた? でも死ぬのは十年後?
「一から話そう。君の不貞――もっと言えば、財産目当ての結婚だったことに気付いたのは、恥ずかしながら最近のことだ。まったく、この歳にもなって恋愛一つしたことがないなんて、滑稽の極みだね。……いずれにしろ、僕を騙していたことには変わりない。それで君に復讐しようと考えたんだ」
男の目は、女の知っているそれではない。冷徹で見下すような眼差しは、嘘ではないことを女に実感させた。
「それで、考えたんだ。単純に君を殺して、僕の残りの人生が牢獄なんてごめんだ。どんな完全犯罪を企てても、必ず名探偵が現れて結局は捕まってしまう。それは世の真理さ。だからね、僕は君を殺さないことにした」
「それが十年後死ぬ毒薬だって言うの?」
「そうさ、今まさに死んでいないのだから殺人罪に問われることはない。そうなる頃には僕はこの世にいない。ちなみに解毒も不可能だし、どんな病院に行っても健康体だと診断されるだろう。あまり騒ぎ立てると、今度は鉄格子のある病室に入れられることになる」
普通なら、そんな薬はないと、口からデマカセだと切って捨てることができる。しかし、それをやってのけるのがこの男なのだと、女は知っている。いや、世界はそれを目の当たりにしているのだ。
女の心は憎悪に燃えながらも、ある部分では冷静だった。激情に任せてここで男を殺したりしたら、残り十年の人生を刑務所で過ごすことになる。それは避けたい。
「別れましょう」
女は絞り出すように言った。「いいよ。そうしよう」と男の返答はあっけなかった。こうして二人は離婚した。女は財産分与を受けて、やはり一般人が到底持ちえない大金を手にしたが、どこか表情は暗かった。
一年程経った頃に気持ちを切り替えることができた。「残りの人生、遊んで暮らしてやる」という信念の下、九年後の死に向けて、金を消費し続けた。金を使い切ったのと、あの時から十年経ったのは同時だった。女は一種の達成感を感じて「やったぞ、人生を楽しんでやったぞ」と天に向かって吠えた。その頃、男は既に死んでいたから、男に向かって勝ち誇ったのかもしれない。
穏やかに眠るように死ぬのか、あるいは苦しみのたうち回って死ぬのか、どちらでも良かったが、しかし、女はいつまで経っても死ななかった。男に騙されたのか、あるいは毒薬が失敗作だったのか、いずれにしろ死ななかった。死なないとそれは逆に大変で、一文無しだから生活ができない。女は三十代とは思えないほど、老けていった。男を虜にした美貌は見る影もなく、あの時嫌悪した男のような醜悪な容貌に変わっていた。
死ぬはずだった日からちょうど一年後、女は死んだ。毒薬の誤差なのか、女がそう願ったからなのか、はたまた運命だったのか、誰も知らない。