86 冥府の官吏
重量物を引き摺るような音に、疾はうっすらと目を開けた。首を巡らせようとして、胸ぐらを掴まれていることに気付く。どうやら、引き摺られているのは疾自身であったようだ。
身体がぴくりとも動かない。力の暴走の反動と膨大な力の圧、さらに気道への圧迫が尾を引いて、疾は男に引きずられても抵抗できず、なされるがままだった。
(……この、術は……なんだ……?)
世界を跨ぎ、知識屋の魔女まで頼って、疾はさまざまな魔術を学んできた。この国の術に関しては少々疎いが、それでも基礎くらいは把握している。それなのに、男が仕掛けてきた術は、全く正体の見当がつかなかった。
凄まじいまでの力を、驚くほどの精度で操る男。正体については、先ほど言霊が乗せられた名乗りで判明している。
小野篁。平安時代の漢詩学者であり、一方で百人一首に選ばれるほど和歌などにも精通していた人物。昼は参議にまで上り詰めた貴人、夜は冥王の部下として地獄の裁定を行っていたという伝説をもつ男。古典で学んだだけの知識で眉唾物だったが、事実だったらしい。
そんな経歴故か、この男がかけた術は、疾の目を持ってしても造りが見えない。複雑さを解読できないというよりは、全く異なる理論体系を扱っている印象を受けた。
もっとも、意識を失うほどの身体への負荷故に、疾の思考がまともに働いていない可能性もある。現に、どこかへ連れ去られていると認識出来ても、状況を打開する方法を考えられない。
やがて、どこかの扉を開閉する音が聞こえて、疾はようやく地面に下ろされた。
「立て」
「……」
男が疾に促すが、指1本まともに動かない。ぴくりともしない疾を見て、男がすっと息を吸い込んだ。
『──立て』
言霊、と認識した時には、疾の身体は勝手に動いていた。震える四肢に力を込めて、立ち上がる。目眩がした。
それでも顔を上げると、薄く笑みを刷いたかんばせが睥睨していた。疾はぐっと歯を食いしばり、低い声で問う。
「……何のつもりだ」
「何の?」
何故か出会った時から楽しげな語調の男が、繰り返す。疾は立たされているだけで荒れる呼吸を懸命に整え、言葉を紡いだ。
「無理矢理……、命に関わるような真似をしてまで、俺に何をさせる気だ」
「さっき言っただろう?」
さっき。何らかの制約を込めた術をかけた際の言霊が、疾の脳裏を過ぎった。あの時、この男は何と言っていたか。
「……鬼狩り、か」
「そうだ」
すら、と腰の剣が引き抜かれる。咄嗟に半歩退き、懐に残っていた銃を引き抜く。半ば条件反射のような疾の動きに、男は口元を弧の形に釣り上げた。
「良い気構えだ。武器も良くお前の特徴を捉えて、作られている」
「……」
銃を握る右手が微かに震えた。分かったような口調が、実際に疾という一個人を把握しているのだと、暗に示していた。
(何が目的だ……?)
鬼狩りをさせる、ただそれだけだとは思えない。それならば、こんな場は必要ない。既に強制させるための術は埋め込まれている、今更力尽くでいう事を聞かせる必要は無い。敵対する意図も無さそうだというのに、何故この男は、ひりつくような闘気を叩き付けてくる。
「俺は、あんたの気まぐれに付き合ってる暇は無い」
「暇? 気まぐれ? 否、本気だ。鬼狩りを気まぐれや暇潰しだと認識しているなら、今直ぐ改めてもらおうか」
──次の瞬間、疾の目の前に立つ男が、剣を振り下ろした。
「……っ!」
疾が取った行動は、半ば無意識下の反応だった。片足を引き下げながら重心で剣を受け止め、受け流し、殺しきれなかった勢いには逆らわず体を床に投げ出す。受け身をとって体勢を立て直し、追撃に備えた……が。
「遅い」
「がっ!?」
視界が横にぶれる。脇腹に蹴りが入った、と疾が認識した時には吹き飛んでいた。体勢を整える事を捨てて、緩衝魔術を発動する。ほぼ同時に、壁に激突した。
「……っ」
全身の痺れるような痛みを無視して、疾は壁を蹴る。飛び込むように体を投げ出したほんの数センチ上を、冷たい鋼の刃が走った。
「人鬼は、人の負の念が凝り募って生まれるモノ。力を求めて堕ちた存在のなれの果て」
「かっ……は!?」
前転して立ち上がった瞬間に飛んできた蹴りを辛うじて避けるも、避けた先に置かれていた剣の柄が腹部に突き刺さった。束の間、呼吸が止まる。
「故にその力は人智を越え、その早さは人間の知覚を超える」
「ぐ……っ」
こめかみを狙った拳を首の動きだけで避けるも、目の上を掠めた。溢れ出た血が疾の視界を片方奪う。
「鬼と成った時点では人間の知性が残っている場合もある。本来妖が時を経て得る知性を、生まれた瞬間に持ち合わせたそれは、根本から戦い方が異なる」
「っ……く、そ……!」
「人鬼との戦いを、身体で覚えろ」
強い。
膂力や早さで上回っている敵は、これまで疾も相手にしてきた。それら全て、動きを先読みした上で相手の裏をかくようにして攻撃を避け、逆に反撃を仕掛けていた。
だが、この男の攻撃は、読めても避けきれない。読んで避けようとしても、その動きを読まれて更に先を越されてしまうのだ。速度に追いつけず、結果疾の傷は増えていく。辛うじて急所は避けているが、時間の問題だ。
破れかぶれに引き金を引くも、弾はあっさりと剣で切りおとされた。返す刃が、肩を掠める。血が舞うのが視界の端に見えた。
治癒魔術など使う余裕などない。全ての可能性を先読みしても、攻撃を緩和するのがやっとで、それも徐々に効かなくなっていく。次第に、地面が疾の血で赤く染まっていった。
(……まずい)
失血は体力の消耗を一気に早める。ただでさえ立つのも怪しかった疾が、動けなくなるのは時間の問題だった。




