84 鬼と男
「うわっ!?」
「ん?」
さあ帰るかと、疾が家路について間もなく。
突然人影が横道から飛び出してきた。疾が半歩下がって避けると、思い切り顔から地面に突っ込んでいく。あまりに見事な勢いに、少なからず呆気に取られた。転倒反射はどうなった。
見たところ同世代らしき少年が呻いているが、介抱が必要なほどではなさそうだ。というか、この状況で何かされた方が普通に嫌だろう。
そう判断し、何故か未だに立ち上がらない少年を無視して立ち去ろうとした、その時。
『────!!』
「ひいっ来たぁああ!?」
この世ならざるモノの怒声と、情けない悲鳴。何より、酷く淀んだ気の流れ。
「……またかよ」
疾が避けようとしていた「何か」そのもののようだ。まさか向こうからやってくるとはと、少年にばれないように舌打ちを漏らした。
どうやらこのすっ転んでる少年は、この異形に目を付けられ逃げている最中だったらしい。「力」を持ちながらその扱いどころか存在も知らず、結果的に制御しないが為に厄介なモノに狙われるというのは往々にある。
これまでに経験があるのか知らないが、対処する力も無く異形のモノに追い回されれば、逃げている際に足をもつれさせて転んでも変ではない……かもしれない。いや、手も付けないのはやっぱり変か。
などとつらつら考えながら、疾はポケットに突っ込んであった銃を取り出す。青醒めた顔でわたわたと地面を這う少年に対し、一応警告した。
「おい。動くなよ」
「へ……え?」
少年は、ぽかんと口をあげて見上げたまま固まる。疾にとっては道を歩くだけでも見る光景だが、横目で見たその顔に見覚えがある気がした。
(……同学か?)
だとしたら厄介だなと思いつつ、疾は現れた異形に銃口を向ける。完全な人型の異形だ。それだけ強力なのだろうかと警戒しながら、引き金に指をかけた。
「え、まっ、あぶなっ」
パンッ! パンッ!
何故か慌てふためいた声で制止を呼びかけられたが、既に引き金を引いていた。心臓と頭、急所に弾を食らった異形は、そのままぐちゃりと液状に崩れ去る。
「……なんだ」
少年の反応やら、異形の纏う瘴気の量やらで疾もかなり警戒していたのだが、ここまで簡単に片付くとは拍子抜けだ。遭遇していた妖よりも弱いくらいだ。
(いや……これだけとは限らない、か)
異様な気配は、まだ残っている。ぴりぴりと肌を刺す空気に、疾は視線を彷徨わせた。
「……え? いや、え? うぇえ?」
瘴気も霧散し、異形の気配は欠片も残っていない。隠形の可能性もなくはないが、現状危険を及ぼす距離にはいなさそうだ。疾はひとまず自分の目を信じることにした。
(と、なると……あとはこいつか)
「……え? いや、ちょっと待って? ……はあっ!?」
何やらどんどん盛り上がっているところ悪いが、綺麗さっぱり今見たもの聞いたものを忘れてもらわねばなるまいと、疾は少年を振り返った。
「とりあえず、落ち着けよ」
パニックになったままでは魔術に掛かりにくいので、会話で相手の油断を誘おうと声をかけた。しかし、少年はますます声を荒げて興奮状態になっていく。
「これが落ち着いていられるか!? いやおかしいだろ、今俺の目の前で起こったことは、俺の常識を綺麗さっぱり水に流したどころか前提条件おかしくね!? 俺の2ヶ月返せ!?」
「……あ?」
眉を寄せて、疾は改めて少年を観察した。やはり、術を操るものなら基本である力の制御が出来ているようには見えない。術者としてはあり得ない未熟さだ。
「人鬼を銃弾だけで倒せるなら、あのわけわかんねー授業とか訓練とかついでに今現在俺がこんなおっかない目に遭う必要なかったって話になるじゃんどういう事なの!? というかなんでさらっと波瀬がそんな事しでかしてるの意味わかんねーんだけど!?」
(……いや、意味分からねえのは、お前の方なんだが)
どう見ても術者とは思えないのに、この少年は当たり前の顔をして、術の世界の「常識」を語る。アンバランスさに困惑しつつも、疾が更に会話を試みようとした、その時。
「──これは、驚いた」
声、が。
「こんな所で、見つかるとはな」
背後、から。
(……っ!)
疾が知覚出来なかった事への驚きは押しやって、弾かれたように身を翻す。目を丸くする少年を視界から外さないまま、しかし視線は、一点に固定して動かせない。
全身から、汗が噴き出す。心臓が煩いくらいに走り、口の中が干上がった。
(──勝てない)
本能がけたたましく警鐘をかき鳴らすのが分かる。目の前の存在は、とても勝てる相手ではない──逃げる事すら許してもらえない程に、力の差がある。
墨染めの狩衣に、直刀を腰に刷く。長い髪を後ろで無造作にくくって風に遊ばせるその人物は、うっそりと笑みを浮かべて俺を見ていた。……その身に、膨大な「力」を抱えて。
総帥の時は、人の理を逸脱した在りように嫌悪した。
ノワールの時は、尋常ならざる魔力量に圧倒された。
だが。
(……違う)
これは、まるで違う。
(なんだ、こいつ……)
こんな力を携えた人間が、存在するわけがない。異質な、この世のものとは思えない気配に、干上がる喉が勝手に上下した。
それでも。
「……」
疾は重心を落とし、一挙手一投足に全神経を向けて、相手の出方を窺う。
どんなに力の差があろうと、僅かな隙を付いて逃げ出せる可能性はある。こんな所で、こんな訳の分からない奴に、殺されるわけにはいかないのだ。
戦う理由もない。何故か、こちらに痛いほどの殺気を叩き付けてきてはいるが、魔法士でもない男と戦う必要はないと判断する。
だから疾は、ただひたすらに隙を見出すべく、敵に意識を集中させた。
──それなのに。
瞬きすらこらえて、初動を見逃さんとしていたのに。ほんの僅かな力の流れすら、見落とすまいとしていたのに。
気付けば、その男は、疾の目の前に立っていて。その右手を、胸に、ずぶりと差し込んでいた。
「……は」
痛みも、熱も、ない。そこには何の感触もないのに、確かに、腕が埋め込まれている。
余りに現実感のないその光景に、疾はただただ瞠目し、吐息のような声が漏れた。
ずる、と腕が引き抜かれる。そこにはやはり傷はなく、血も流れない。なのに、膝が独りでに折れて、疾はその場に座り込んだ。
「ぁ、」
どくんと、全身に鼓動が響く。
腕を突き入れられていた部分から、じわじわと熱が込み上げて、全身へ広がっていく。
(……これ、は……あの、時の)
攫われ、力尽くで目覚めさせられた記憶が蘇る。己の異能が引き出されていく感触に、疾は強く胸元を掴んだ。
(だめ、だ)
これに呑まれたら、また自分は壊されてしまう。これ以上、自分が変質するのを、まざまざと感じたくない。
危機感に駆られるようにして、疾は暴れ出しそうな異能を押さえ込む。溢れ出す熱と押さえ込む力が、拮抗した。全身に痛みが走るが、歯を食いしばって耐える。
けれど。
「……返す返す、驚かされる」
「……!」
異能に意識を向けすぎて失念しかけていたが、疾の目の前にはまだ、男がいる。愉快げな声に、疾は息を呑んだ。
(に、げ……っ)
逃げなければと頭は理解しているのに、体が動かない。溢れて暴れようとする力を押さえるだけで精一杯で、それ以外の事に意識を割けない。
「この状況で、押さえ込もうとするとはな。だが、俺が今求めているのは、制御ではなく、力だ」
影が覆い被さる。動けない疾にかがみ込むようにして、男は胸元を掴む手をゆっくりと引き剥がし、空いた掌で心臓の真上に触れる。
──ばきん、と。
力尽くで制御の箍を外された音が、した。
「あ、ぁあ……っ!」
熱い。
瞬時に暴れ出した力が、とんでもない熱を全身へ広げていく。記憶にあるものよりも更に熱く、激しく、燃え盛る炎の様に疾の身体から溢れ出た。
熱い。痛い。
唇を噛み切ってこらえようとするが、現実は容赦なく。
「────!」
視界が、白く消し飛んだ。




