8 甘い日常
「お待たせ!」
ドン! と音が鳴りそうな重量に、疾とユベールが目を丸くした。皿いっぱいに盛りつけられたデザートの山に、疾はほんの少し頬を引き攣らせる。
「ア、アリス……多くないか?」
「選びきれないから、全部食べてしまおうと思って!」
「……そうか。良かったな」
元気よく言いきったアリスの幸せそうな笑顔に、疾は取り敢えず何も言わない事に決める。座るなりフォークを握ったアリスの食べっぷりをしばし眺めた。
「美味しいわ!」
「それは何より」
「アヤトは食べないの?」
笑いながら紅茶の入ったカップを傾ける疾に、アリスは不思議そうに尋ねる。その間も、フォークを口に運ぶ手は止まらない。
「俺はそこまで甘いもの食べたい気分でもないし、これで良いよ。好きなだけ食べろ」
「ふーん……」
食べきれる自信も無い、と言い添えた疾に、アリスは少し考える顔をした。時間をおいて、ぱっと顔を明るくする。
「アヤト、アヤト」
「ん?」
「はい」
輝くような笑顔で差し出されたのは、ケーキを刺したフォーク。何度かアリスとフォークを見比べて、疾はぎこちない笑みを浮かべた。
「ア、アリス……?」
「アヤト、あーん」
「いや、あの」
流石にそれはちょっと、という反論は、アリスの期待いっぱいの笑みと、ユベールの全く目の笑っていない笑顔の前に消え去った。
「……」
観念して口を開いた疾は、口の中に広がる甘ったるいチョコレートケーキを黙って咀嚼する。
「美味しい?」
「……うん」
「でしょ!」
花咲くような笑顔を見せたアリスに、疾は何とも言えない気分で笑い返した。
「あー、お腹いっぱい!」
「それは、まあ……」
「あれだけ食べれば……」
満足げなアリスに、半ば胸焼け気味の疾とユベールは、乾いた笑みで相槌を打った。
まさかあの後、更に追加で取りに行くとは思わなかった2人である。幾ら新しく焼き上がったからといって、カヌレにカスタードプディングにジェラート数種までたっぷり乗せて来るとは想定外だった。2人とも山盛りの皿を見て、即座にカフェオレを注文した。見ていただけで口の中が甘かったのだ。
「毎日でも食べたいわ!」
「幾らでもどうぞ」
「いや……毎日は……」
即座に全肯定したユベールとは違い、ケーキの構成成分を知る疾は控えめに反論の声を上げた。振り返る兄妹に、言葉を選んで告げる。
「ほら、毎日食べるより、時々の贅沢の方が、美味しく感じるんじゃないかと思って」
「……それもそうね! アヤト分かってるわ!」
「はは……」
12という年齢でも、「ケーキは砂糖とバターの塊、肥満の素」という「事実」が、女性に対して遠慮なく言えるものではないという「常識」は、疾も一応知っていた。曖昧に笑って誤魔化し、そのまま話を流す目的半分、ポケットからチケットを引っ張り出してアリスに一枚手渡す。
「アリス、はい」
「え?」
きょとんとした顔のアリスに、疾はにこりと笑って告げる。
「週末、2人で行こう」
「……!!」
ぱあっと表情を輝かせたアリスが、頭1つ背の高い疾を見上げた。
「アヤト!」
「……っ」
首ったけに巻き付く腕、微かに漂う甘い香り。
そして、唇に触れた柔らかな感触。
全く身構えていなかった疾は、辛うじて硬直するのをこらえてキスに応じる。
それなりの時間をおいて、アリスは疾から離れた。
「嬉しい! アヤト、大好き!!」
「……それはどうも……」
はしゃぐアリスに、遠い目で答えた疾は、ちらりと横目でユベールを確認した。にこにこと満足げなその様子に、そっと溜息をつく。
(……日本人だなあ、俺……)
このフランスという国で、キスは挨拶代わりにされるほど当たり前な行為であると理屈で分かっていても、往来、それも兄の目の前で躊躇いなく飛びつける感性だけは、どうにも適応出来ずにいる疾だった。