61 壁の揺らぎ
合格発表は2週間後。発表日に教科書や制服の販売を行うという情報を確認して、疾はまた異世界に跳ぶ事を考えた、のだが。
(さてどこにするか……)
既にかなりの異世界を経験した疾は、そろそろ情報が不足してきていた。自身の情報収集能力では見落としている世界も沢山あるだろうが、現在疾の手持ちにある情報では、どこもかしこも行くだけで命の危険がある場所ばかりだ。
(……しばらくは魔術の練習でもするか……?)
命をかける覚悟は出来ているが、死ぬ確率の高いところに突っ込むのはただの無謀だと弁えている。疾の魔力も随分増えて、魔道具を併用すれば魔力切れに陥る事もなくなってきた。焦って無茶をする必要性は感じない。
ならば、異世界の情報を求めつつ、魔術の精度を上げること、魔道具の質を上げることを考えた方がいいかもしれない。銃の制作もまだ途中だ、腰を据えて完成させてしまうのもありか。
そう、考えていたのだが。
「──!?」
唐突に空間が歪む。考え事をしながらも周囲への警戒は続けていたにも関わらず発生した事象に、疾は一気に意識を張り詰めさせた。
銃を取りだし構えた疾を、歪んだ空間が取り巻く。魔術でも、術でもない、ただの力の奔流が疾を呑み込んだ。
(……っ、しまった……っ!)
咄嗟に張った結界に魔力を注ぎながら、ようやく、思い出す。
──この街は異世界との境界が薄い。
その、本当の意味を。
数秒後には、疾は歩いていた路地から姿を消していた。
「……っ!」
我に返った疾は、自身を取り巻く敵意に、危うく無差別に魔術を発動しそうになるのを、ギリギリで押さえ込むことに成功した。
「誰だ」
低い声で投げ掛けられた誰何に、首を巡らせる。両手剣を構えた青年が、油断なく疾の挙動を伺っていた。疾の容姿にも僅かに反応しただけで、警戒を緩めない。珍しい反応に、そんな場合ではないものの、少し驚いた。
「どこから現れた。所属は」
どうやら、言語は通じるらしい。疾は少し考えて、正直に答えることにした。
「分からない」
「……ふざけているのか? ここがどこか、分からないわけがないだろう」
「分からない」
青年の表情に、戸惑いが浮かぶ。普段ならばその隙を付いて逃げ出すところだが、疾も情報が欲しい。黙って相手の反応を待った。
「……記憶喪失か?」
「いや……そうとも言うのか。どうやって今ここに立っているのか、よく分からない。さっきまで、全く違う道を歩いていたはずだ」
慎重に答えると、青年は難しい顔で押し黙る。直ぐ側で斧を構える壮年男性が、鋭い声で尋ねてきた。
「それを証明する手立てがあるのか」
「……ここがどんな場所かは分からないが、少なくとも野宿が前提になるような森の中なのは確かだろう」
疾は両手を軽く開いて訴える。考え事をしながら夕飯の買い物に向かっていたところだった為、軽装に肩掛けのバッグと、野宿どころか森を歩くのにこの上なくそぐわない。
……もっとも、ポケットには魔石や魔道具が忍ばせてあるので、ある程度は戦えるのだが。そんな無用な警戒を招く情報はわざわざ口にする必要もあるまい。
疾の訴えに尤もだと思ったのか、壮年男性は僅かに警戒を緩めた。背後で魔術の発動準備をしていた女性も、1つ息を吐き出す。
「それで、ここは一体どこだ?」
「禁忌の森……魔物の瘴気が淀みきった、人の住めない土地だ」
剣を下ろした青年がそう答え、疾に歩み寄ってきた。にこりと笑い、疾にポケットから取り出した腕輪を差し出してくる。
「これは?」
「瘴気の影響を取り除く魔道具だ。付けておくと良い」
どうやら、人の好い集団に巡り会えたらしい。珍しくも運の良い、と内心で自身の境遇を評価しつつ、疾は申し出には首を横に振る。
「大丈夫だ。それは自分で何とか出来る」
「どういうこと?」
急に、魔術師と思しき女性が声を上げた。そのままの勢いで、疾に詰め寄る。
「瘴気を何とか出来るのは、一握りの神官だけだわ。服装からして神官でもなさそうなのに」
「自分で魔道具を持っているってだけだ」
「あなた、魔道具がどれだけ高いものか分かって言っているの?」
「勿論」
疾とて、いつまでも両親の非常識ぶりに浸かっているわけではない。知識を蓄え異世界を経験する上で、魔道具魔法具にとんでもない値段が付いている事も、本来は魔術処置を施した金属の台座が必須である魔道具を、魔石に回路を刻むだけで済ませているのが特殊技能である事も把握していた。
だが、出来るものは出来るし、持っているものは持っている。妖に襲われる頻度が上がった疾は、浄化の魔道具は常備するようにしていた。それが今回も役だったというわけだ。
(まあ……そもそも瘴気の影響薄いけどな)
身の内にある異能のせいか、そもそも疾は、魔術や瘴気といった「在らざるもの」の影響を受けづらい。目に映る瘴気の濃度からして、この程度であれば魔道具の必要は無いだろうと判断している。
だが、今出会ったばかりの彼らに、そんな事情を話す気はない。だからこそ、たまたま持っていたという体で話を進めて誤魔化した。
「ちょっと伝手があって、魔道具を手に入れたんだよ」
「ふうん……?」
女性は納得がいかないようだったが、ひとまずは引き下がる。直ぐに敵意をぶつけてくるのではなく、自身の常識外のことを受け入れる姿勢は、魔術師としてのレベルの高さを窺わせる。




