55 生き延びる為に
全ての異世界旅行が、順風満帆だった訳ではない。
何度も疾は、命からがら逃げ延びる場面に遭遇した。
一切の備えなくドラゴンに襲撃された。転移して直ぐに大勢の魔術師に囲まれ、魔術を打ち込まれた。勇者として召喚され、断ると隷属の呪いをかけられそうになった。魔物蠢く砂漠のど真ん中に転移した。
ありとあらゆる危機を、ありとあらゆる備えを駆使して退けた。持ち込んだ魔道具も、武器も、自身の技能も、惜しみなく注ぎ込んで敵を倒した。
それでも疾の力が足らず、あるいは作戦が裏目に出て、怪我をする事はあった。けれど疾は、それを敵に悟らせず、余裕を見せて逃げ去るよう心がけた。命からがら逃げる敵は容易く倒せるが、怪我1つなく逃げ去る敵というのは、追撃を尻込みさせるのだと──これまでの経験から、嫌という程知っていたから。
怪我を隠し、余裕を見せつけ、不敵に笑ってみせて。そうして、弱みを隠して強がるばかりの疾は、その裏で生き延びる為の技能を磨き上げていく。
何があっても、自分の家に戻れば、治療も魔力の回復も出来る。絶対安全な場所を確保しておけば、最後の一線で逃げるという選択肢を迷わず取れる。その為に、家だけは、魔力を惜しまず、ありとあらゆる防御体勢を築き上げた。父親が家族を守り抜いたシステムよりは劣るかも知れないが、怪我の治療中に魔術師に襲われない程度にはなるよう、複雑な魔術を幾つも編み上げて作った。
そうして、ありとあらゆる可能性を考えて、我が身を守るシステムを構築しても。……他者を切り捨てなければ生きられない場面では、疾は、迷わず切り捨てた。
「……本当に、迷わず逃げたな」
そう言って諦めたように笑ったのは、ドラゴンに襲撃された際、金稼ぎのため共に行動していた冒険者の1人だっただろうか。
動きが洗練されていたから、おそらく騎士が潜入捜査のために潜り込んでいたのだろう。互いに事情を抱えているとうっすら悟りながら、だからこそ深入りせずに自らの仕事に専念するだけの割り切りを持った、肝の据わった男だった。
彼が少しでも住人の逃げる時間を稼ぐために奮闘している傍らで、疾は、伝令役を買って出る振りをして、ドラゴンのブレスが村を焼き尽くす前に逃げ出した。
「最初に言ったろ」
見捨てた男の臨終の場面を前に、疾は眉1つ動かさずそう返した。男が力無く笑う。
「何かあれば自分の命を最優先にして動く……言葉を1つも違えず実行するとはな。普通、躊躇うもんだぞ」
「躊躇ってたら、一緒にブレスに巻き込まれて、今頃お前と同じ状況だろうよ」
「はは、違いない」
痛みに顔を顰めて、男は疾を見上げた。苦く笑って、溜息をつく。
「強いのになあ」
「……」
「お前は強いのに、英雄願望がないんだな。正義感を捨ててるんだな。……普通は、自分だけ生き残る方がキツイ。俺は、あの場に踏みとどまって、少しでも1人でも助けようって思った。それが普通だろ?」
「さあ? 俺にとっちゃ、何の意味もねえ考え方だな」
唇を歪めて、疾は相手の非難を撥ね除ける。……とっくの昔に、そんな綺麗事は振り捨てた。疾が生き延びるために、その考え方はいらないものだ。
「なんでだよ……俺が、おまえなら……」
苦しそうに、細い息を吐きだして。おそらく民の為に命をかけた男は、今際の思いを呪いのように吐いた。
「俺が、お前くらい強ければ……もっと、沢山、助けられるのに……」
「知るかよ」
……疾は、強くない。魔力はいつでもかつかつで、大抵の相手に火力で劣る。異能は使いこなせなくて、武術も突出して秀でているわけではない。
平然と見せてはいるが、今も、背中と足に火傷を負っている。もう魔術1つ扱う余裕もなくて、魔道具も随分数が減った。
それでも、僅かな可能性に賭けて、ドラゴン討伐に足る実力を持つ冒険者に渡りを付け、討伐のために再び案内をこなした。到着してから1日以内に人材と道具を揃え、現地まで馬で駆け抜けた一連の動きは、迅速と言われてもおかしくないもので。
──ただ、間に合わなかった。治療も、救出も、あと少し遅かった。ドラゴンの脅威が、疾の足掻きを上回った。それだけの、こと。
「お前がどうだろうと関係ねえ。俺は自分の命が大事なんでな。英雄になる気もねえ」
「……ああ、ちくしょう……」
天に唾するように疾を睨み上げ、その男は事切れた。黙ってそれを看取った疾は、背後から肩を掴まれて振り返る。
「満足か?」
「……助力、感謝する」
疾の頼みに応じて、助けに走った冒険者だった。目を見張るような大魔法でドラゴンのブレスと拮抗して見せた彼は、険しい顔で疾を睨み付ける。
「てっきり、最後の足掻きで逃がされたのかと思えば……逃げたのか。仲間を捨てて?」
「元々チームを組む際に、その行動については承諾を得ていたからな」
──人の心は、感情は、驚くほど不安定で流動的なものだと、こういう時に思う。
もし、疾が自分の判断で逃げ出すのではなく、仲間に逃がされていたのならば。おそらく目の前の人物は、疾を責めないだろう。仮に疾が自分を責める様子を見せたら、お前は自分に出来ることをしたのだと、何も悪くないのだとすら言うのだろう。
そこに、判断の主体が変化しただけで、感情は逆転する。チームの合意ではなく疾の独断だというそれだけで、判断内容の正誤に関わらず、悪と断じられてしまう。そんな不可思議さが、人の感情には存在する。
もしあの時、疾が伝令役を務めず、誰もが村人を逃がすことに専念していたら。おそらくチームは食い止めきれずに全滅し、ドラゴンは村ごと全ての命を消し飛ばしていた可能性が高い。疾が迅速に救助隊をかき集めたからこそ、こうして無事に討伐出来たという見方も出来る筈だ。
だが、そうはならない。
英雄はあくまで死した彼らで、生き延びた疾は卑怯者の悪役だ。
(くっだらねえ)
そんなもので自分の価値を計りたければ好きにすれば良い、と疾は思う。
疾は、生き延びると決めた。
それは両親との約束だけでなく、自分の判断で、生きることを最優先と決めたのだ。
命をかけて誰かを救おうとする行為を、最上とは認めない。それでは自分の命が、そこで終わってしまう。……命懸けで戦って生き残れるほどの力は、才能は、疾にはない。
だから自分は、自分の人生を生き抜く。それこそが、疾の最上だ。
例えその為に切り捨てなければならない命があったとしても、躊躇わない。例えその為に他人を利用しなければならないとしても、迷わない。
胸ぐらを掴もうとしてきた手をひょいとよけ、疾は逆手に掴んだ。骨に響く痛みに顔を顰める相手を、嘲笑う。
「あんた、遠距離専門だろうが。この距離で俺に喧嘩売ってんじゃねえよ」
「……見捨てた仲間の前で、恥ずかしくないのか」
「恥ずかしい?」
はっと笑って見せる。顎をあげ、傲然と言い返した。
「俺は俺の行動指針に従って生き延びただけだ。恥じることなんざ1つもねえ。事前に同意を得ていた俺達の契約に、あんたが口出しする権利がどこにある?」
「……見下げた奴だな」
嫌悪に顔を歪める相手を鼻で笑う。才に恵まれた魔法の使い手が、客観性を失っているのが滑稽でならない。
「じゃあ、あんたが助ければ良いだろうが」
「っ!」
「あんたの魔法で、こいつら全員、助ければ良い。俺に文句言う暇があったら、1人でも多くの傷を癒したらどうだ?」
「き、さま……!」
彼が、攻撃特化型の魔法使いであるのは知っていた。治癒を扱えず、その事を苦しく思っていることも。それでも、自分に出来ることをと、攻撃魔法を極めて支えとしているのも知っている。知っていて、だからこそ、そこを突いた疾の言葉に、彼は激昂した。
(……つまらねえやつ)
自分の才能と本当に向き合っていれば、この程度で動揺すまい。少なくとも疾は、そんな無様は晒さない。非力である自分を嘆く気持ちも悔しく思う気持ちも抱えたまま、出来ることをしてのける。……今のように。
それすら思い当たらないような連中如きに、何を言われても少しの痛痒も覚えない。怒りの余り言葉を失う様をまた鼻で笑って、疾は踵を返した。




