54 渡界
「……っ!!」
光溢れる部屋に無事戻った疾は、凄まじい勢いで込み上げてきた不快感に、たまらずトイレへ駆け込んだ。
「うっぐ……っ。おぇ……っ」
吐いても吐いても治まらない気持ち悪さ。体まで震えだすのを何とか宥めて、ひたすら胃の中のものを吐き出す。決して短くない時間、疾は蹲ったまま動けなかった。
「……っ、はあ……っ」
やがて、気分の悪さが落ち着いてきた所で、疾はのろのろと顔を上げる。顔面蒼白なまま、蹌踉めきながらトイレの水を流し、洗面所で口をゆすいだ。
「……これ……毎回やるのかよ……」
顔色の悪い自分の顔を鏡で眺め、疾はげんなりと呟く。
──器が押し広げられ、そこに凄まじい勢いで魔力が注ぎ込まれる感覚。異物が体内で膨れあがるような不快感は、疾が望んで手に入れた物ではある。あるのだが、ここまで激烈な反応が出るとは思っていなかった。
「はあ……まあ、いいか」
掌に視線を落として、疾はじわじわと口元に笑みを上せる。確かに、欲しかったものを手に入れた感触。その実感が湧いてきた。
「増加率は……10%ってとこか。思ったより少ないが……数をこなせばどうにかなる」
欲しくて仕方が無かった、魔力。それを試すのは、後にする。……おそらくまた、魔力を使えば流れが乱れて倒れてしまう。流石にここで、同じ轍を踏むのは避けたい。
取り敢えずは休養をと、疾はシャワーを浴びて寝る準備に入った。
魔力増幅による吐き気が、その後少しずつマシになったのは救いだった。転移後の魔力の制御にもコツがあると気付いて、改めて転移魔法陣を描き直した。
そうして、疾は何度も何度も、世界を渡った。その度に、1つ1つ検証を行いながら。
──異世界に渡った後、魔力が安定するまでどの程度の時間がかかるのか。それまでの間に魔術を扱える限度はどうか。
──魔術の理の違う世界で、自分の魔術は通用するのか。減損、増幅があるのなら、その原因は何か。
──異世界に滞在する日数と、魔力の増幅量は比例するのか。比例の限度はあるのか。
何度も何度も渡りながら、自分の体で試していく。その度にぶっ倒れたり吐いたりと酷い思いをしたが、それでも、確かに結果は自らの手に掴んでいった。
1度渡ったら5日以上滞在すべし、というのは、2度目の異世界転移で学んだ。厄介な連中にあらぬ誤解で追い回され、これは魔術を学ぶよりも逃げた方がいいと判断して、滞在2日目で戻ったら……凄まじい目眩と吐き気に襲われ、その場で倒れ込んで気を失ったのだ。
どうやら、世界の壁を越える事で起きる魔力の乱れは、疾が思う以上に身体に負荷がかかるらしい。前後不覚に陥った疾が目を覚ました時には、母親に命じられた30時間を危うく切りかけていて、大慌てで連絡を取ったものだ。
5日以降は問題はなく、それ以上の滞在は魔力増幅に影響を及ぼさなかったため、5日はなにがなんでも稼ぐと心に決めた。
魔力増幅は、あちらの世界の魔術にどれだけ理解と習熟を得られるかで左右するようだ。3度目に渡った世界は、疾の理論と非常に相性が良く、大魔術に近いものまで扱えるようになって帰還したところ、魔力は1.5倍近く増えた。逆に、魔力量ありきで全く使えなかった時は、実感が出ないレベルで増えなかった。
それらを知った疾は、いつしか、5日間を魔術書の精読と魔術の練習に殆どを費やし、その合間に環境を見て、それ以上の経験を重ねるかどうかを決めるようになった。魔術以外を学ぶ世界は6割程度だったが、疾はその時間を最大限に有効活用して観察し、学んだ。
人の動き。組織の成り立ち。魔王と呼ばれる存在。勇者が生まれるまでの過程。国の政治。街の治安。異形の生態。世界の、仕組み。
それら全てを、学んで。人の心理を、組織の成り立ちを、理解して、予測して、敵対した時により確実に相手を叩き潰す武器とする。
自分が生き残る為に、あらゆるものに手を伸ばした。
とはいえこの時点では、疾はそれらを、戦術を磨くための武器としか見ていなかったのだが。




