5 確執
墓地から最も近い停留所でバスを待っていた疾は、ふと視線を左へ向けた。滑り込んできた黒い車から、1歩離れる。少しだけ重心を落とした。
静かなブレーキングで止まった車の、後部座席の窓が下りる。褪せた金髪に一瞬だけ身体が強張ったが、続いて見えたうす水色の瞳に肩の力を抜いた。
「久しぶりだね。乗っていかないか?」
「必要ありません」
「話が、あるんだ」
またか、と顔を顰めるも、相手はこのままだと車に引きずり込みそうな勢いだ。仕方なく、疾は承諾の方向に話を進める。
「墓参りは?」
「まだ、だが……」
「では、終わってから、今から言う場所で会いましょう」
ゆっくりと口にした住所と店名に頷くと、車は走り去った。それを見送り、溜息をついて、疾はようやく来たバスに乗り込む。
(……面倒くさい……)
先程といい、今といい、内容は聞くまでもなくて。既にうんざりしている疾だが、それでも、断らないのは。
「……親父が正しいか」
苦く笑って、窓の外からバス車内へ視線を戻す。軽く目を閉じて、それ以上の思考を止めた。
指定した喫茶店に足を踏み入れ、個室を希望する。ウェイトレスに案内されて中に入り、紅茶を注文した。
アッサムのシンプルな香りを楽しんでいると、革靴の足音がして、待ち人が入ってきた。立ち上がって相手を迎える。
「待たせたかな」
「いえ、さして」
ソファに腰を下ろし、ウェイターに注文を告げる相手をじっと見つめる。父親と同世代である彼は、父親とは違い恰幅がいい。
「それで。俺に何か用ですか。ムッシュ・テオドール・ラヴァンヌ」
問いかけに対しテオドール──ユベール、そしてアリスの父親は、静かに疾を見返した。
「あれから、2年が経った」
「そうですね」
「……君は、2年前とは別人のようだ」
「そうかもしれませんね」
「理由は……教えてくれないのかな」
にこりと笑ってみせると、案の定相手は苛立ちを滲ませる。構わず、続けた。
「2年前の誘拐事件及び転落事故に関しては、警察とムッシュ、そして父の間で決着が着いたはずですが。俺に何を聞きたいのですか?」
「っ、君は……」
一瞬波打った感情を、息子と違い直ぐに制御したのは年の功か。注文した珈琲を口に運ぶことで、表情を疾から隠した。一呼吸置く仕草に、疾も紅茶を傾ける。
「アリスは……」
おもむろに口を開いたテオドールに疾が視線を向け直すと、テオドールは目を伏せて言った。
「……君を心から慕っていた。信じていた。だから、私も君を信じたい。……教えてはくれまいか。何故君は……」
静かさを重視して選んだ喫茶店で、疾は続く言葉を眉1つ揺らさず待った。
「……君は……アリスを、見捨てたのだね」
瞬間脳裏を過ぎった光景を、見せてやれたら。ちらりと、そんな事を思って。
「我が身が可愛かったから、ですよ」
けれど結局、それだけを答えた。
「……何が、あったんだ?」
「さあ。答える義理は感じませんね」
アリスとの間にあった出来事は、誰にも話はしていない……親にさえ。このまま、墓場まで持っていくつもりだ。
「っ、何故だ、どうしてそこまで……」
「どうして、ねえ」
相手の言葉を繰り返して、冷笑を浮かべる。恨み言を言うのは趣味じゃないが、これくらいは言わせてもらおうかと疾は口を開いた。
「真実に耳を傾けようとせず、欲しい言葉を得る為だけに何度も何度も尋ねてくる相手に、誠意なんかありませんよ」
「な……っ」
「こう言い換えましょうか? 貴方はただ、俺にこう言って欲しいだけでしょう。「娘さんを殺してしまい、すみませんでした。俺だけが生き残って、申し訳ありません」、とね」
にい、と笑って、疾は言い放つ。
「残念ですが、俺はこう言うわけです。──貴方の娘は自ら死を選んだ。俺は選ばなかった。それだけだ」
「貴様!」
今度こそ押さえきれずに椅子を蹴って立つテオドールを、疾は短く笑い飛ばした。
「キリスト教は自殺を禁じている……でしたか? 信仰とやらの為に警察に裏で手を回し、転落事故と言葉を変え、更に学校での心象操作を行って疑いの方向をすり替えて。ご苦労なことですね、そうしてアリスの死を偽って満足ですか?」
「しゃあしゃあと……!」
「ああ、そうそう。これだけは言っておきましょう」
立ち上がり、テオドールを見上げる。頭半分高い相手を傲然と見下し、疾は嗤った。
「逆恨みで俺の家庭を潰そうとしておられるようだが、やめた方がいい。俺の父親は、たった1年でシェア30%を奪われた貴方の会社如きに潰されるほど、安い経営はしていない。そして、妹に手を出すなら──」
ティースプーンを摘みあげ、無造作に投げる。テオドールの頬を掠めて壁に深々と突き刺さったそれを見て、テオドールが青醒めた。
「──その時は、生まれたことを後悔させてやる」
脅しとしてはこれで十分。そう判断して、疾は個室を後にした。外のウェイターに自分の紅茶代だけを払い、店を出る。
「はー……」
大きな溜息が漏れ出て、疾は自分で自分に失笑した。
「だっさ」
2年前の事件だけは、感情のコントロールが上手くいかない。頭の中では整理をつけたのに、こうして当事者と顔を合わせれば、平常心を保つのに多大な体力と気力を奪われてしまう。
……未だに引き摺っている証だ。そう分かって、何とも滑稽に感じてしまう。
「俺が謝る事じゃない」
言い訳じみた呟きを落として、疾は足を家の方角へ向けた。
部屋に帰ってまず、魔術書を開く。暗号を読み解くのは外国語を読むのと変わらない。斜め読みでざっと内容を把握してから、改めてしっかりと読み込んでいく。
その傍ら、左手に魔力を集めて、編み上げていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。魔法陣をパズルのように積み重ねていく。
解読と魔術の練習の同時並行。出来るようになったのは、ここ半年のことだ。ここまで辿り着くのは本当に長かった。血の滲むほど歯を食いしばって努力した成果が、ようやく実った。
やがて、部屋の天井に当たるまで魔法陣を積み上げて、それらを1つ1つ解除して。いつもの作業をほぼ無意識に行ってから、疾は机から銃を取りだした。
父親が作った、魔力を弾として射出する魔道具。分解して整備し、また魔力を篭める。いつもの工程を行っていると、不意に目眩を覚えた。
作業を止めて、目を閉じる。そのまま待つと、ぐるぐると回転する気持ちの悪さは次第に治まっていった。が、身体から力がこぼれ落ちるような不快感は残ったままだ。
魔力が尽きた時特有の症状に、疾は苦い笑みを浮かべた。
「情けない」
魔力切れが起こってしまっては、これ以上の作業はやめるべきだろう。どうせ無理をしていたら、父親に見つかって強制終了だ。
銃と魔術書を放り出し、今度は教科書を取り出す。
疾の在籍する高校1年は、年度末にフランス語の筆記とグループ試験がある。それはバカロレア──大学の共通入学試験の点数として加算されるため、結果を非常に重視される。
バカロレアを受験する気はない疾にとっては、どうでもいいといえばどうでもいいのだが。最後の試験だし、折角ならきっちり点数をとって日本へ向かいたい、という気持ちがあった。
そういう訳で一応勉強を、と始めたが……集中出来ない。
「…………」
ペンをくるくると回して、背もたれに寄りかかる。ぼんやり天井を眺めて、苦い笑みを浮かべた。
「……あいつらと話して、変に思い出したな」
こうなったらいっそ、全部はっきり思い出して、記憶に沈めてしまった方が早い。さざ波のように細かく寄せては引く諸々の思いを整理するため、疾は2年前の出来事を自分から想起した。