4 旧友
翌朝。もの問いたげな妹を無視して、疾は登校した。教室に入った途端、視線が突き刺さる。
生来、疾は人の視線を浴びてきた。人間離れしたとまで言われる、整った外見のせいで。
フランスでは琥珀の瞳も茶髪もそう珍しくないが、色彩やつくりがそれこそ人形のように整っている為か、どこへ行っても絶賛される。
疾自身は顔なんてどうでもいいのだが、顔を見た相手は必ず硬直して魂を抜かれたようになるから、美形だという自覚は一応ある。……普通に会話するのも一苦労だが、15年も付き合っていればまあ慣れる。同様に、注目を浴びる事にもとうに慣れた。
だが、今浴びている視線は、外見への関心から来るものではない。
好奇、困惑、嫉妬、嫌悪、そして恐怖。
毎日浴びているそれらを全て無視して、疾はいつも座る席に腰を下ろした。道具一式を出して、先生の到着を待つ。
この国では教師が30分遅刻するのも珍しくないから、先に教科書に目を通して待っていれば予習を事前にやらなくても大丈夫、というよく分からない事態がしばしば起こる。
ひそひそと囁かれる言葉を全部聞き流し、疾は教科書に意識を落とした。
(バカロレア加算の試験まであと1週間か……はあ、怠ぃ)
授業後、さっさと教室を後にした疾は、建物の外に出ると同時に軽く伸びをして、歩き出した。無視はするものの、視線の集中砲火というのは地味に鬱陶しい。
さて帰って魔術書でも読むか、それとも時間に余裕が出来たし図書館で文献でも漁るか……と束の間迷った疾は、背後から声をかけられて顔を顰める。
「アヤト」
フランス語にhの発音はない。最後のeを発音するのは女性名だ。eを発音しない場合、手前の子音も発音しない。
そういった事情から、「疾(Hayate)」は発音上「アヤ(aya)」になるが、日本人として生まれた疾にしてみれば、そんなどう聞いても女性名で呼ばれるのは抵抗がある。その為、フランスでは妥協して「Hayato」と綴り、結果アヤト、というのがフランスでの名前になった。
とはいえ、この2年、家族以外で疾をそう呼ぶ人物というのは指折り数える程しかいない。教師ですら、腫れ物に触るかのように距離を置いていた。
そして。今疾を呼んだ声は、非常に聞き馴染んだ、それでいてもう関わりたくない人物のものだった。
「……自分で顔を見たくないとか言った割に、よくよく話しかけてくるよな。ユベール」
顔も向けずにそう返すと、足早に近付いてくる足音。そして疾の隣を通り過ぎ、くるりと振り返った。
光に透き通る金髪に、ほんの少し霞にけぶる春空のような青の瞳。かつて屈託のない笑みを向けあったその色彩に、疾はほんの少しだけ唇を歪めた。
──本当に、そうなのか。
父親の問いかけが、今になって揺り返す。
「何の用だ? 手短に済ませよ」
「……君はどうして、そうやって僕との会話を拒絶するんだい。アヤト」
苦しげに顔を顰めて投げ掛けられたその問に、疾はわざとらしく息を吐きだしてみせた。
「何度も何度も説明したのにしつこいからだろ。2学年飛び級の誉れを受けるエリートサマとは思えない無様だな」
「それはアヤトも同じだろう、リセ2年」
「残念、俺はリセ1年だ。留年してしまったからな」
フランスには、飛び級制度も留年制度もある。
飛び級には、リセ卒業までに2回までという制限があるが、そもそも飛び級出来るのは学年に1人いるかいないか。
反対に、留年する生徒は比較的多く、これに対して否定的な印象は持たれていない。そもそもこの制度が、「生徒にとって心地の良い環境下で学んでもらう」というコンセプトの下に成り立っているからだ。
とはいえやはり、飛び級をした生徒は幼い頃から注目されがちだ。特に、2度の飛び級をした生徒ならば尚更。
そして、疾もユベールも、かつて2回の飛び級をした生徒として注目を浴びていた。だが疾は2年前に半年間休学した影響で留年となり、結果飛び級1回分、本来より1つ上の学年にいる。
既知の情報に、しかしユベールが見せたのは憤りに近い感情だった。
「……君は! どうしてそうやって……!」
「おいおい、落ち着け。別に変な事は言ってないだろう?」
くつくつと笑って怒りを煽る。留年の話を持ち出したのは元からユベールを煽る為だ。狙い通りの反応に、更に燃料を投下する。
「俺がちょっとばかり誘拐されて休んだのは、ユベールもよく知ってるじゃないか」
「アヤト!!」
もはや完全に怒り心頭で怒鳴りつけるユベールに、ゆるりと首を横に振ってみせた。
「落ち着けよ、ユベール。天下の往来で争いごとは恥ずかしい」
校舎を出て直ぐのこの場所は、当然ながら多くの生徒が出入りしている。ただでさえ人目を引く疾と、飛び級で有名なユベールが話しているだけでも野次馬の好奇心を誘うのに、更に声を荒げては、人を呼び集めているようなものだ。
ぐっと押し黙ったユベールは、どうやら大事にしたくて話しかけてきたわけではなかったらしい。少しは自分の知名度を自覚しろ、と疾は内心ぼやいた。
「じゃあな」
「っ……待って」
この流れで有耶無耶にして帰ってしまえ、と思ったのだが、ユベールは既に我を取り戻していたらしく引き留めた。内心舌打ちして、半ば背を向けかけていた身体の動きを止める。
「……今日、何の日か、覚えてる……よな」
「……」
疾は、無言でユベールの視線を受け止めた。短く答える。
「命日だろ」
「……墓参り……行かないのか」
「行って欲しいのか?」
「……っ」
ユベールが何かをこらえるような表情をした。大きく息を吸い込んで、ゆっくり答える。
「僕は……わから、ない。でも……妹は、アリスはきっと、アヤトに来て欲しいと思う」
「そうか」
それだけ答えて、今度こそ背を向けた。制止の声も聞かず、疾はその場を後にした。
海を一望出来る、山の上の広い墓場。
バスから降り立った疾は、潮の匂いを軽く吸い込みながら、墓地の入口へ足を向けた。
1つ1つ、墓石の名前を確認しながら、目的の名前を探していく。探していた真新しいその名は、墓地の中でも特に奥地に、隠れるように存在していた。
『アリス・ラヴァンヌ』
その名前が彫られた墓石の前に立ち止まり、疾は持参した白い花を供える。
「……」
無言で、彼女が眠る墓を見下ろす疾の目に、感情の色はない。淡々と、死者の眠る地を眺め、静かに目を閉じた。
やがてゆっくりと目を開けた疾は、ふと顔を上げた。誰も居ない墓地に、海からの風が吹き付ける。
轟と音を立てて吹きすぎる風の中、疾は呟くように、言葉を落とす。
「これが、最後だ。……ごめん」
風が止んだ時には、疾は墓地の前を辞していた。