39 反撃
がらりと開けたドアの先、生徒達がしんと静まりかえる。あの日の繰り返しのような反応に、しかし疾は知らぬ顔で足を進めた。
(……大丈夫そうだな)
唯一、トラウマの再発だけは懸念事項だったが、大丈夫らしい。……開き直ったら平気とか、自分の神経の太さに少し微妙な気分だ。
だが、まあ。
「……おい。おまえ、何考えてるんだ」
唸るような声で絡んでくるフィリップに視線を向けて、疾はにっこりと笑ってやる。
「おはよう、フィリップ」
「……!?」
先手必勝。
明らかに前回と異なる反応を見せた疾に、フィリップが困惑したのが分かった。
(……なんだ)
こんな事で良かったのか。怯えていた自分が、馬鹿馬鹿しい。
「どうした?」
「お……まえ……っ」
得体の知れないものを見る目で見られても、疾はもう動じない。
「挨拶しただけだろ。どうかしたのか?」
「なんで……お前、よく……っ」
とはいえ、いつまでも呑まれている相手ではなかったようだ。徐々に敵意を取り戻していくフィリップを冷静に見据え、疾は小さく口の端をあげた。
(そうでなきゃな)
最初に絡んできた奴を、徹底的にやり込める。クラスメイトは、それで十分だ。前回思いきり人に差別発言ぶちかましてくれた彼には、存分に生贄になってもらおう。
「お前……お前が、アリスを殺したんだろ……!」
「は?」
馬鹿にしたような相槌に、フィリップが頭に血を上せる。感情にまかせて怒鳴り散らそうとする、その一息前に。
「お前さ、警察の調査にケチ付けているのか?」
「……っな」
先手を、打ち込む。
「警察はきちんと俺にも事情聴取をして、捜索をしっかり行った。その上で、転落事故と結論付けた。プロの調査を否定出来るほどの根拠が、お前にあるのか?」
「……っ」
息を呑んだフィリップに、疾はにいと笑って見せた。
「へえ、ないのか」
「お、まえ……っ」
「根拠もないのにケチをつけるなんてな、しかも殺人犯扱いだ。名誉毀損で訴えられるレベルだが、その辺分かって言っているか?」
まずは、根拠に基づいた反論を。冷静に考えれば誰でも分かる指摘をしてやっただけで、フィリップは狼狽えた。
(ばーか)
訴えられる側になったと錯覚するだけで、こんな動揺を晒すとは。良くこれで、自分を弾劾出来たものだ。
「……金、で……っ」
「ん?」
「……金で、買収したんだろ!? お前の父親は、重役なんだってな。それで、警察を買収したから、訴えられなかったんだろ!」
やっとの事で思い付いたらしい反論も、想定の範囲内。鼻で笑って叩き潰した。
「金で警察を買えるっていうのも、警察への侮辱だぞ、フィリップ。ついでに、俺の父を貶める言葉でもある。──お前の父親、父の会社にケンカ売れるほど立派だったか?」
「!?」
「息子の暴言で潰れる会社じゃないといいな」
にこりと笑ってやると、面白いほど怯える。全く、他人を攻撃するなら、自分も攻撃される覚悟くらい決めておけというのだ。
「そもそも、俺が殺したっていうなら、証拠はあるのか? 目撃者は? 物的証拠は? 状況証拠だけで逮捕出来ないのは常識だぞ」
「っ、屁理屈を……!」
「いや、当たり前の話だろ。人殺し扱いをするなら相応の根拠を示せよ、じゃないと俺も納得いかない」
さあ言えと、1歩踏み出して促す疾に、フィリップはやっと気付いたらしい。疾が、彼に対して敵意を向けている事に。
「ひ……っ」
「俺を疑うからには、疑った根拠があるんだろ? それをちゃんと示してくれ」
微かに笑みを浮かべて詰め寄る疾に、怯えるフィリップ。誰が見ても、優勢は明らかだった。周囲はたじろいで、誰も声を上げようとはしない。
(……所詮、この程度)
有利なうちは好き勝手言えても、いざ形勢が怪しくなれば黙り込む。数の力で押し切れる可能性はあるのに、我が身可愛さに何も言わない。外野なんて、そんなものだ。無責任な発言で責められるからこそ、無責任に知らん顔もする。
フィリップは、そんな周りを予想していなかったのか、焦ったように見回して、叫ぶ。
「なんで、俺だけ……みんな言ってるぞっ!」
「みんなって誰だよ……というかな? 俺は、実際に俺に向けて言ってきたフィリップに、訊いてるんだ。それ以外に、殺人の容疑を面と向かってかけてきた人はいない」
暗に、何も言わなければこんな目には遭わせないと示せば、誰もが視線を逸らした。ますます焦った顔で、フィリップは喚いた。
「なん……なんなんだよお前、何でそんな……っ。恋人だったんだろ!? アリスが死んで、悲しくないのかよ!」
「……」
「アリスが傷付いたのは、お前のせいだろうが! 平気な顔してっ、殺したんじゃないかって思ってもおかしくないだろ!!」
ある意味、下手な虚飾が消えた彼の表情は、今までで1番純粋な怒りを見せていた。平然と彼に反駁してみせる疾の態度に、死者を悼む様子が見て取れなかったからか。そこには確かに、想いを寄せた相手の喪失を悲しむ、年相応の心があった。
「俺のせい?」
──けれど、疾は引かない。
「ははっ」
もう、他者に譲らない。
「な……に、笑って……」
「馬鹿な事言うなよ」
もう、彼らに自分の心は見せない。
「は……」
「俺が」
ゆっくりと、笑って見せる。無駄に整った顔は、こうすると人間離れして見えると知った上で、見せつける。誤解を、作り出す。
「アリスを、傷付けたって?」
所詮、感情任せに喚くばかりのこいつらに、真実なんていらない。自分が満足する物語を、勝手に作れば良い。
「な……おま……っ」
「俺は」
笑顔のまま、疾は言い切る。
「アリスと同じ──誘拐事件の、被害者だぞ」
事実を、自ら踏みにじる。
「アリスを傷付けたのは、誘拐犯だろ。俺は何もしていない。こっちも、警察の捜査済みだぞ?」
「っ、お前が……見捨て、たんじゃないか!? アリスは、巻き込まれただけでっ」
「それ」
遮って、1歩踏み出した。怯える相手に、言い放つ。
「誰に、聞いたんだ?」
「……っ! ……本人、が……っ」
「嘘つけ。アリスはずっと、入院して面会謝絶だったそうじゃないか。お前と会話する余裕なんかあるわけがない」
笑って。疾は、首を傾げた。
「警察には守秘義務があるし……おかしいな? 誰がお前にそんな事を吹き込んだんだ? それとも……作り話か?」
「違う!」
「じゃあ言えよ。誰に聞いたんだ?」
問い詰めていく疾に向けられる視線は、もはや未知の生物に向けるもので。痛いほどに突き刺さる恐怖の眼差しを、疾は全て無視した。
印象と、言葉の上澄みだけを真実にしたいなら、勝手にすればいい。
「っ、ユベールが、アリスが、言ってたって」
「へえ、ユベールが。あいつ、アリスにつきっきりで看病していたって聞いたぞ。いつそんな事を他人に漏らす暇があったんだろうな」
勿論、それくらいの時間はあっただろう。あれほど余裕の無い様子だ、口走っても仕方が無いだろう。
分かっていて、知らないふりをする。
「どのみち、恐怖で錯乱したアリスの証言に、どれほどの証拠価値があるのかは不明だけどな。──俺は、アリスを助けようとしたんであって、見捨ててはいない」
ふっと、笑って。
「これも証言だよな」
「っ、信じるか!」
噛み付いてきたフィリップは、怒りを思い出したように喚く。
「お前のような嘘くさい奴の言うことなんか、誰も信じない! 出てけよ、人殺し!!」
「やれやれ……俺の言ったこと、1つも理解出来ないんだな。可哀想な頭脳をお持ちで」
結局、今までのやり取りを全て無かったことにしようとするのまで、予想通り。
(本当に……)
こんな連中に何を言ったところで、意味が無い。
「お前らに合わせて、わざわざ、そっちの母国語で説明してやったのに。自国の言語も満足に理解出来ないなんて嘆かわしいな。そんなんで外国語の試験大丈夫か?」
「っこの……!」
ちなみにフィリップは、外国語の成績は余り揮わない。母親の酔狂で標準偏差を狙っていた疾よりも、点数は悪い。
それを分かった上で嘲笑ってやれば、分かりやすく激昂した。
(あーあ……)
これはバカンス以降、ビジネスパーティは荒れるなと。頭の片隅で、そんな事を思い。
「悪いが、俺も言語の理解を出来ない奴に道理を説くほど、暇じゃないんだ。道を空けてくれるか? いい加減、先生が来る」
にこやかに、アリスのことなど欠片も罪悪感を感じないとばかりの態度に怒る彼らは、先日疾を罵倒した時、何を見ていたのだろう。青醒めて言葉も出ないほど衝撃を受けていた様子と、今の状態を比べて、おかしいとは思わないのか。
(思わないか)
その程度の人間関係しか築いてこなかった疾にも、責任はあるのだろう。信頼してくれていた筈のユベールでさえ、自分の言葉に価値を置かなかったのだ。
(ま、いいさ)
家族は、信じてくれている。それで十分だ。
疾は、自分の弱さから目を逸らさなければ、それで良い。
「ほら、どいてくれないと座れないだろ。立って授業を受けるなんて、失礼だと思わないのか?」
「お、まえの席なんか、ない……!」
「何言ってるんだ。俺はこの学校に在籍しているし、この学年に在籍することも公式に認められているぞ。フィリップにそんな権限はない」
にこやかに返せば、──ついに、フィリップが拳を振りかぶった。
「この、黄色いサルが──!」
「ああ、それ前も言ってたけどな」
手首を掴んで、捻りながら引く。思い切りバランスを崩した相手の足首を蹴りつけ、顔から地面に落とした。
「は……え?」
「差別発言はマナー違反だぞ。今時、純粋な白人種なんてそういない。お前だってどこかでアジアの血が混ざってる筈だ、自分のルーツを否定すると碌な事がないぞ」
ああでも、と、疾は目を細めて。
何が起こったか分からず転んだままのフィリップの、顔の直ぐ側をだんと踏みつけた。
「ひ……っ」
「俺としても、サル扱いされるのは非常に不愉快だ。2度と俺の前で言うな、耳が腐る」
激昂した頭を一気に冷やすように、暴力を見せつけ。吐き捨ててやれば、フィリップは真っ青になってガタガタと震えだした。
(取り敢えずは、これで十分か)
そう判断して、疾は踵を返して席を探す。堂々と前の方の席に陣取ってやれば、潮が引くように人々が自分を避けた。
(良い席なのにもったいない……まあ、どうでもいいけど)
教科書を取り出した丁度のタイミングで教師が入ってきたのを見て、疾は久々の授業に意識を向けた。




