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疾き波は岩をも割き  作者: 吾桜紫苑
1章 はじまり
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37 覚醒

 家に戻ると、父親が待ちかまえていた。


「大丈夫か」


 出迎え1番の言葉に、連絡を受けたと察した疾は、苦笑気味に頷く。


「父さん。今現在、それを言うのは俺じゃないと思う」


 父親が眉を上げ、楓に視線を向けるより先に、母親が楓に声を変えた。


「楓? 材料なら揃っているから、作りたければどうぞ」

「言われなくても!」


 足音も高くキッチンへ乗り込んでいった楓に、男2人が目を丸くする。綺麗に揃った表情にくすりと笑い、母親が説明した。


「疾が帰ってくるまでも、言う人は言っていたみたい。私がお菓子作りを教えてから、ストレスが溜まるとお菓子を作るようになったの」

「……まあ、平和で良いんじゃないか」


 先程までの荒れようを目の当たりにした疾は、無難にそう返した。ニコニコしながら、今日はホールケーキ3段位かしら、と楽しみにしている母親に苦笑して、疾は父親に目を向ける。


「心配かけて、ごめん。……大丈夫だ」

「……そうか」


 妹の様子に苦笑するその顔に影がないのを見て取って、父親は安堵に目を細めた。くしゃりと髪をかき混ぜ、母親に目を向ける。


「助かった」

「ううん、私は何もしていないわ」


 未だにくすくす笑いながら、母親がキッチンへと娘を追った。それを見送って、疾は自分の部屋に入る。

 鞄を置いて、制服を脱いで。部屋着に着替えた疾は、ベッドに転がって天井を見上げた。思い返すのは、アリスのこと。


 多分、自分は、間に合わなかったのだ。……けれどそれは、どうしようもないことだ。疾もまた、立ち上がるのに時間がかかったのだから。

 だから、忘れない。アリスが、最後に見せた笑顔を。


 前に進むと決めた疾は、それを静かに、胸の奥に沈める。目を閉じてゆっくりと息を吸い、吐きだして目を開ける。


「……さてと」


 そうして、ぐらついていた足場をしっかりと取り戻したからには。


「目下の問題を片付けないとな」


 脳裏に浮かぶのは、クラスメイトの、ユベールの顔。一切の迷い無く、正義を信じきった顔で、弾劾してきた彼らの言い分を反芻して、疾は顔を顰める。


(……やなもん思い出した)


 そういえば、あの子どもも、「おまえのせいで」と何度も繰り返していた。残酷な指示を出しておいて、笑いながら。

 妹の激しい感情の波に触れて、ようやく一連の事件にまつわる感情が整理されたらしい。冷静になった頭で改めて思い返し、疾はすう、と目を細めた。 


(つくづく……救いようがない連中)


 ふつふつと込み上げるものに、口を曲げる。

 それは、ずっとずっと、忘れていたもの。

 遙か昔に、飼い慣らしたもの。


「……馬鹿馬鹿しい」


 学校で穏やかに過ごしていた頃は、上手くいなしてきたから、頭をもたげることがなかった。


「あいつら……」


 王子だ飛び級生だと張られたレッテルや、両親の立場を考えたからと言って。恐怖に心が占められて、すっかりどこかへ消え去って、忘れてしまっていたとはいえ、だ。


「何を、正義ぶってるんだ」


 一体、何を血迷っていたのか。妹の言う通り、怯えた自分が阿呆だった。


「ろくにものも考えず、勝手ばかり言って」


 ああ。そうだ、そうだった。


「人が良い顔して大人しくしてれば……どこまでもつけあがって」


 自分は決して、王子などではない。


「お前ら如きが……っ」


 湧き上がってきたものそのままに体を起こして、疾は手近にあった鞄を掴む。


「俺にっ」


 鞄を振り上げて、疾は思いの丈を吐きだした。


「ふざけたこと言って、喧嘩売ってくるんじゃねえっ!!」


 ──武術をおさめた疾が力任せにぶん投げた鞄は、盛大な音を立てて壁にめりこんだ。

 殆ど間を置かず、疾の部屋の扉がばんと音を立てて開けられる。


「疾! 何が……」


 異変を察知して飛び込んできた父親は、部屋の惨状と疾の表情を交互に見て、静かに訊いた。


「……何かいたのか?」

「別に何も」

「そうか」


 ぶすっとした顔で吐き捨てた疾から察したのか、父親は頷いて言う。


「修復費用は小遣いから引くぞ」

「魔術で直すから必要ない」

「分かった」


 それだけ言うと、父親は下手に刺激せず、疾をその場に残して出て行った。慣れた様子であしらう父親を据わりきった目で見送り、疾は立ち上がって鞄を回収する。


「ああくそっ」


 久々に感じる憤りを抑えきれず、疾は吐き捨てた。深呼吸して、鞄を改めて机の横に放る。……ちょっと音が大きかったが、今回は床も無事だしセーフだろう。


「あーもう……」

 ベッドに腰掛け、顔を両手に埋めて、呻く。湧き上がる感情を持て余して仕方が無い。


 ……折角、忘れていたのに。


 どうせ理解出来ないなら、言うだけ無駄。自分が疲れるだけだから、受け流した方が楽。

 そうして作り上げたのは、他人との摩擦を避けて、自分を守る鎧。言葉で誘導して、敵意が生まれないように。好意的な印象を相手に抱かせ、反発を生まない。


 ……そうすれば。


「俺よりずっと頭が悪い癖して、理屈に合わない感情論で喧嘩売ってくるアホを見ずに済むと思って、人が努力してきたっていうのに……」


 積み上げてきた信頼は、こんなにあっけなく崩れ落ちるものだったのか。重ねてきた努力は、こんなにあっさりと無に帰す程度のものだったのか。これほどに浅はかな、愚かしい人間が多数を占めているのか。


(だったら、もう良い)


 こうなってしまっては、彼らの信頼を取り戻すなど無理だろう。妹の事しか頭にない人望もあるユベール、正義感に浸りきったクラスメイト。理屈が通じる様には見えなかった。

 時間をかけて、行動や言葉を積み重ねれば、少しずつ変わっていくのかもしれないが──


「やってられるか」


 ──そこまで、疾は気が長くない。これ以上、馬鹿相手に期待を持つ気もない。

 せいぜい、起こしてはならないものを目覚めさせた自分達の過ちを、たっぷりと後悔してもらおうじゃないか。


「楓の言う通り、素敵な免罪符があるからな」


 そう呟く疾の幼少期を、彼らが知らなかったのは確かに不運だったのだろう。


「おーい、疾兄さん」

「なんだよ」


 顔を上げると、楓がいつの間にか部屋に入っていた。微妙な顔で疾を見ている。


「……何だろう。さっきまでの自分を鏡で見せられた気分。冷静になるとちょっと恥ずかしい」

「安心しろ。さっきまでの楓は、どこに出しても恥ずかしいレベルで子供返りしてたぞ」

「うっ」


 言葉に詰まった楓に小さく笑って、疾は立ち上がった。


「ケーキ出来たのか?」

「うん、3段ホール作ってすっきりした。紅茶も淹れたし、食べない?」


 砂糖は控えめにしたよ、と付け加える楓に、頷いてみせる。


「お腹もすいたし、もらう」

「……兄さん」

「なんだ?」


 歩き出した疾に、楓はちょっとそっぽを向いて、けれどどこかほっとした様子で言った。


「おかえり」


 1つ瞬いて、疾は苦笑を浮かべて返す。


「ただいま」


 喧嘩を売ってきた相手を頭脳に飽かしてガチ泣きさせ、面倒な大人は罠に嵌め舌戦で言い負かし、更に面倒な輩は水をぶっかけていた過去を持つ疾が、成長した今、明確に喧嘩を売ってきた相手をどう扱うのか。

 フランスに来て、父親の社交に付き合うべく、必要に応じて態度を切り替えていた為に、誰も知らなかった。知っていれば、もう少し行動が違っていただろう。


 それを知るのは家族だけで──無神経な言葉の数々に深く傷付いた疾を知る彼らが、それを止めるはずもなかった。


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