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疾き波は岩をも割き  作者: 吾桜紫苑
1章 はじまり
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35 哀悼

 生徒が屋上から落ちた。

 その事件は当然ながら大騒ぎとなり、警察が呼ばれる。

 その場に居合わせた疾は、状況の説明を求められた。茫然自失状態の疾に、けれど警察は容赦しなかった。


「それで、手は触れたのか?」

「……届かなかった」

「君が飛びかかったのを、避けようとして落ちた可能性は?」

「……ちがう。その前に、踏み切ってた」

「君は何故、あの場にいた?」

「電話、もらって……それで、止めようとして」

「止めなかったのか」

「……止められなかった」


 事実の確認の為に、踏みにじられていく疾の精神状態は、一気に悪化していた。


「一応、身体検査をさせてもらうぞ」


 そう、伸ばされた手に怯えて。


「っ、やめろ……っ」

「……やましいものでも持っているのか?」


 途端に表情を張り詰めさせた警官に、近付いてくる剣呑な気配に。疾が我を失いかけた、その時。


「やめてください」


 凛とした声が響き、疾を優しく抱きしめた。


「ッ、一体どこから」

「私は、疾の母親です。ここにいて当然でしょう。……心に傷を負った子供を追い詰めるのが、警官の仕事ですか?」

「……我々は、関係者に話を聞いていただけだ」

「……同じ言葉を、今のこの子を見て、言えますか」


 青醒めた顔で目の焦点も合わない疾の姿に、怒りを滲ませる女性に、警官の勢いが弱まる。


「いや……」

「この子は半年かけて、ようやく心の傷が癒えつつあります。それを貴方がたは、また壊すつもりでしょうか」

「……」

「誘拐事件の時と同じ弁護士が、来ています。事情の説明はもう十分でしょう。後は弁護士を通して対応させていただきます」


 それ以上何も言わせず、母親は疾を連れて、聴取を行っていた部屋を出た。





 校舎を離れて、校門へ向かう道の途中。雑木林に見つけたベンチに座らされるまで、疾は心ここにあらずだった。


 助けたかった。今度こそ、救いたかった。なのにアリスは、死んでしまった。

 その、事実がただただ痛くて。


 ひそひそと囁かれる、侮蔑の言葉。止めを刺したのだろうと疾を責める言葉が、校舎を離れても延々と疾の耳に響いて、責める。


(俺の、せい……)

「……疾」


 柔らかな声が、疾を呼んだ。びくりと震えた疾に覆い被さるように、緩やかに腕が背中に回される。


「……母、さん」

「ええ」


 この場にいるはずのない声は、けれど疾の呼びかけに優しく応じた。


「大丈夫」

「……っ」

「大丈夫よ、疾。ちゃんと、私達は知っているわ」


 疾が、戦ったこと。アリスを助けようと、大の大人でも耐えられない拷問を懸命に耐えたこと。……それでも、耐えられなかったこと。

 疾は、一切を語っていない。語れていない。けれど、大人であり、事情を疾以上に詳しく知る両親は、疾とアリスの身に起きたことを、ほぼ正確に察していた。


「疾は、悪くないの」


 抱きしめたまま、母親はそっと囁く。


「疾は、悪くない。……何も知らない子供達が、分かりやすい敵になってくれそうな貴方を、安易に選んだだけよ。疾が、傷付かなくて良いの」

「……母さん、俺……っ」

「うん」


 疾の顔に、ようやく、感情の色が戻った。苦しそうに顔を歪めて、吐き出す。


「俺……俺は、アリスを、助けたくて」

「ええ」

「でも、俺、こわ、くて……どうしても、むり、で」

「そうね」

「だから、俺……っ、アリスは、俺が」

「疾」


 ほんの少し、腕に力が加わった。抱きしめたまま、母親は疾に告げる。


「貴方とアリスちゃんは、同じよ」

「……っ」

「2人とも、酷い大人に、酷い目に遭わされたの。疾は悪くない。酷い事をした人が、悪いのよ。疾なら、分かるでしょう?」

「でも……っ」


 アリスを裏切ったのは自分だ。信じてくれていたのに。自分だけがこうして生きて、彼女が死んでしまった。疾の手を取らずに死を選ぶまで追い詰められたのは、疾のせいだ。


「……アリスちゃんはね。疾があの場にいてもいなくても、死を選んでいたわ」

「……っ」

「止められなかった自分を、責めないで。まだまだ傷だらけの疾が、助けようとした。それだけで、十分よ」

「けど、俺……っ」

「疾は、何も悪くないわ」


 母親は少し目を細めて、そっと囁く。


「アリスちゃんが……疾の言葉を、受け止められなかったの。……立ち上がり方を忘れてしまったのね……」


 痛みに、蹲って。恐怖に、心を潰して。

 差し伸べられた手を取って、立ち上がるだけの力が、もう出せなかった。

 最後に選んだのは、アリス自身。


「……あの子の死を、疾が背負う必要は無いわ」

「かあ、さ、ん」

「疾は、悪くない。私は、疾を信じるわ」


 柔らかな声に、信頼を乗せて。母親は、疾を信じると言った。


「疾の身に起きた全て、アリスちゃんの身に起きた全て、貴方は悪くない。全ての罪は、加害者にある。……そう信じて、前に進むと、決めたのでしょう?」

「……母、さん」

「大丈夫。疾には出来るわ」


 父親が、疾の弱った心を支えたのとは真反対。母親は、疾の強さを信じて掬い上げた。一歩間違えば追い詰めてしまいかねないリスクに怯みもせず、疾を励ます。


「疾は、賢い強い子だもの。貴方が学校に通えるようになるまでとっても頑張ったのを、私はちゃんと知っているわ」


 こっそりと、苦笑して。母親は優しく告げる。


「疾は、私よりずっとずっと強い。私は、疾のように自分で立ち直れなかったから。疾を尊敬しているわ」

「母さんが……俺を?」

「そうよ? 息子だからって私より凄くないなんて、誰が決めたの? 貴方が今こうしてここにいてくれるのが何よりの証拠。……それはとても凄いことなのよ、疾」


 かつて大人に与えられた傷に心を潰し、間違えた少女が。ボロボロの身体で立ち上がり、それでも懸命に正しい道を進もうと、他人を助けようとした少年を、そっと包み込む。


「良く、頑張ったわ」

「……っ」

「貴方は、本当に頑張った。疾は、私達の自慢の息子よ。誰にも恥じずに誇れる、最高の子供なの」


 愛情と賞賛を惜しみなく注ぎ込んだ、その声に。

 侮蔑と怒りを浴びせられ、自分を責めて萎縮した疾の心が、ようやく感情を思い出した。


「お、れ……っ」

「……泣いてあげて」


 そっと、頭を撫でられて。


「貴方が、アリスを悲しんでいるのを、辛く思っているのを──忘れないであげて」

「……っ」


 肩口に頭を押しつけて、強く母親の腕を掴んで、疾は固く目を閉じた。今まで出てこなかった涙が、ボロボロと溢れていく。


 ──助けられなかった。

 助けたかった、愛した少女。守ろうとしたのに、守れなかった。彼女を、救えなかった。

 悲しい。悔しい。


「……貴方は、悪くないわ」


 苦しさを吐き出す疾の頭を優しく撫でて、母親は言う。


「大丈夫。ちゃんと、分かっているわ」


 母親も、父親も、──アリスも。

 疾が懸命に、本心から、傷を乗り越えアリスを助けようとしたのは、分かっている。


「アリスちゃん、最期、謝ったのでしょう?」

「っ……ああ」


 だきしめたかった、と。

 それは、きっと、アリスの、最期に残った心の欠片。


「ちゃんと、疾の心は、伝わったわ。届いたわ」

「……っ」


 言葉も出ず泣き続ける疾の頬をそっと拭って、母親は抱きしめた。


「アリスちゃんの為に、今は泣いてあげて……」


 それでも、立ち上がれなかった少女を。戻れないところまで、壊されてしまった少女を。

 ……傷と向き合いきれずに、疾からまでも逃げてしまった、少女を。

 今は、痛みと共に送ろう。


 悲しい人生の終わり方を選んでしまった少女に、母親も少しだけ、涙をこぼした。


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