34 絶望
どれほど、そうしていただろう。
のろのろと顔を上げた疾の顔に、表情はない。
「……電話……」
電話を、しなければ。父親に、言われていたから。学校から出る時は、連絡をしろと。
ああ、でもまだ時間が早い。父親は、仕事へ行ったはずで、だから。
電話が、鳴った。
びくりと震えた疾は、手元の電話に視線を落として、目を疑う。
──アリス・ラヴァンヌ
画面には、発信相手の名が、記されていた。
「っ、アリス!?」
考えもせず、飛びつく。先程までのユベールの話も忘れて、疾は名前を呼んだ。
希望に、可能性に、縋って。
『……あはは。アヤトだ……』
しかし、嗄れきった声で、弱々しく届いた声に、疾は言葉を失う。
『よかった……電話、通じた』
「アリス……? どう、した?」
『アヤトの声、聞きたかった……』
ぞくり、と。何度も疾を守った本能が、煩いほど警告を伝えた。
「……アリス。今、どこにいるんだ」
『……学校』
「え……?」
彼女は学校に通える状態にないと、ユベールが言っていなかったか。
『アヤトと、出会った場所だもの……アヤトは、どこにいるの?』
「が、っこうに」
『え?』
声が途切れて、アリスの声が少し弾む。
『あ……ほんと。アヤトだ。学校に来ていたのね』
「……っ」
反射的に見回すも、アリスの姿はない。
(向こうから見えるなら、こっちからも見えるはずだ。近くにいないって事は……上か!)
ばっと見上げると、風にさらされた金髪が見えた。──校舎の、屋上に。
「……アリス?」
何故、そんな誰も寄りつかない、所に。
『最後に、アヤトに会えて良かった……』
囁くような声に、疾は弾かれたように駆け出した。
「待、て……今、行くから!」
『……』
返事はなかったが、構わない。人生で最も本気で走る疾は、先程まで寄りつくのも怖かった校舎へ迷わず飛び込み、階段を駆け上がりだした。
視線も、かけられる声も無視して、全力で階段を上がる。息を切らしながらも、スピードは緩めない。急げと、早くしろと、本能が叫んでいた。
「アリスっ!!」
屋上へ続く扉を乱暴に開ける。上がる息をそのままに、疾はアリスを探して首を巡らせた。
「……来て、くれたの?」
「っ、アリス!」
いた。屋上の端で自分を見ている姿に、疾は息を呑む。
ユベールの比ではないほど痩せこけたアリスは、見るも痛々しい状態だった。目はふらふらと彷徨い、疾を見ているのかいないのか、よく分からない。身体が危なっかしく揺れ、時折ぐらりとバランスを崩す。
今にも落ちそうな様子に、疾はぞっと背筋が冷えるのを感じた。
「アリス……こっち、来い。そこは危ない」
「ふふ……アヤトは、やっぱり優しい」
ほんの少し表情を緩めて。アリスは、疾を焦点が緩んだままの目で見つめた。
「嘘、なのよね。アヤトが私を見捨てて、助かろうとしたって。だって、アヤト、優しいもの」
「アリス、俺……」
「うそつき」
「!?」
びくっと肩を震わせた疾に、アリスはふわふわと笑って言う。
「だって、アヤト言った。何かあったら、自分が助かるのを最優先するって。私でも見捨てるって、あのとき言ったもの」
「っ……お、れ」
笑い合った、最後の記憶。笑顔で受け入れてくれたアリスは、今も、疾の言葉を信じていた。……言葉、だけを。
「だから、見捨てたのよね。だって、アヤト、元気そう」
「……アリス、ちがう。ちがう、んだ」
やめてくれと、心が叫ぶ。いくらでも責める権利があると、頭では分かっていても。クラスメイトに、ユベールに、責められ続けた疾の心は、アリスの言葉を直ぐに受け入れる余裕はなくて。
思い出すのは、嬉しそうな子供の狂った笑顔。アリスの、悲鳴。
それでも疾は、必死で自分の恐怖を押しやって、頭を下げた。
「……ごめん、アリス」
「アヤト?」
「ごめん、俺が巻き込んだ。……守り、きれなかった。アリスを沢山、傷付けた。……ごめん……っ」
悪いのは、あの子供だ。自分を壊す為だけに、弄ぶ為だけに、アリスを壊した。
それは分かっているし、そう結論づけて、前に進むと決めたけれど──それでも。
「アリスは、俺を責めて良い。全部俺のせいにして、いいから……っだから」
どうか、やめてくれ。
そんな、全てを諦めたような顔で、そこに立っていないで。
「アリス……こっち、来い」
「アヤト?」
「約束、しただろ。埋め合わせ、するって」
びくりと、アリスの身体が揺れる。手を伸ばして、疾は訴えた。
「一緒に、行こう。アリスの好きなケーキ、好きなだけ食べればいい。アリスの好きなところに行こう」
「……」
「俺と2人が心配なら、父さんやユベールに頼む。勉強も、するんだろ」
言葉に想いを託すのは、あるいは自分の為でもあったのかもしれない。
失ったものは大きくて。けれど、また歩き出せるのだと。ボロボロになった少女に自分を重ねて、疾はそんな希望に縋っていたのかもしれない。
それでも、本心から、アリスを救いたくて。
「だから、な。こっちに来い。アリス」
そう言って、手を差し伸べた疾を、アリスはじっと見つめて。ゆらりと、また身体が揺れる。もう少し、と1歩踏み出した疾は、しかし。
「……ごめん、アヤト」
「っ!?」
謝罪の言葉に、凍り付いた。
「私……アヤトみたいに、強く、なれない」
「な……ん、で」
どうして、そんな顔で笑う。
『おまえが、我が身可愛さにゲームを投げ出したツケは──あの子が、払うんだよ』
全てを壊した声が、過ぎる。
アリスが、屋上の縁へ、足をかける。
「アリス、待て……よせっ」
振り払うように駆け出した疾に、微笑んで。
「ごめんね、アヤト。私……」
「やめろアリス!」
危険も省みず、思い切り手を伸ばした疾の手は、空を切り。
「……もういちど、アヤトを、だきしめたかった」
「アリス────!!!」
疾の絶叫は、アリスの命を奪う音を、掻き消してはくれなかった。




