26 選択
気を取り直して、疾はソファに腰掛ける。父親が向かいのソファに座るのを待って、背筋を伸ばした。
「それで、何から聞きたい」
「全部」
迷い無く返された言葉に、父親が眉を寄せる。懸念するような眼差しに、疾は真っ直ぐ向き合った。
「大丈夫……とは、言い切れないけど。ここまで関わったら、知らずにいる方が危ないだろ」
「知らずにいて良い」
「え?」
疾を見る、父親の目は。思わず疾が息を詰めるほど、真剣な光を宿していた。
「疾がこのまま何も無かった事にして戻りたいなら、俺は全面的にそれを支える。学校を変えて、疾を誰も知らないところへ行く必要はあるが。今度こそ捕まらないよう、全力で守る」
「……」
父親の言葉に、疾はようやく気付く。今回の件が疾の中で消化されるより重く、父親に後悔の念を持たせていたらしい。
(……父さん……)
何度も、繰り返し「悪くない」と告げた父親は。その裏側で、自分のせいだと責めていたのだろうか。
(俺の、不注意でもあるのにな)
忠告はされていた。それを守りきれなかったのは疾だ。だからこそあの結果に繋がったのも、また事実。事実をねじ曲げることが嫌いなはずの父親が、それでも自分で背負うのは。
「父さん。あの……こども、と、知り合いだったんだろ」
「……疾」
「少し、聞いた。……裏切り者、って、言ってた」
まだ、思い出すのにはかなりの自制心が必要で。意識して呼吸を繰り返しつつ、疾は尋ねる。
「過去に、父さんと何かあって……それで、俺に手出ししたと。俺を「こちら側」と称していたのは、俺も──」
「違う」
言葉を遮って、父親は顔を歪めた。思いの他の反応に、疾は驚いて声をかける。
「父さん? どう……」
「違う……疾。思い違いだ」
「何が……?」
「疾は、違う。奴とは関係無い。……奴は、関係無い者をねじ曲げて、自分の手元に置きたがる狂人だ」
父親が、言葉を選びながらも説明してくれた内容を噛み砕いて、疾は躊躇いながらも尋ねた。
「それは……父さんも、そうだったのか?」
「……ああ。奴が、俺の魔術理論に興味を持ったんだ。それで、自分のものにしたがった。……一時期、俺は奴の組織に属していた事がある。それを抜けたことを、裏切りと言っているのだろう。身勝手な主張だ」
「組織に入ったのはどうしてだ? ……どんな、組織なんだ?」
父親が黙り込んだ。1つ間を置いて、静かに首を振る。
「疾。これ以上は知らなくて良い」
「父さん──」
「あれの言葉を深く考えなくて良い。忘れろ。どう理屈を付けたって、結局あいつは……ただ、疾に手出ししたかった」
ぞくりと、疾の背筋に冷たいものが滑り落ちた。父親の続く言葉を、どこか遠いものとして聞く。
「俺の魔術を欲しがったように、俺の子供がどんな力を持っているのか、昔から興味を示していた。俺の裏切りなんて、ただの口実だ」
1つ間を置いて、父親は疾に真っ直ぐ向き合った。
「そして、これだけは覚えていろ。たらればを想定して疾は自分を責めているが、仮に疾が俺の指示を全て守っていたとしても、逃げ切れたとは思えない。……本当に、疾は悪くない。疾の判断ミスが今回の現状を引き起こしたのではない」
「……そう、か」
だったら、と疾は思う。小さく苦笑して、無表情の奥に苦しそうな色を隠す父親を眺めた。
そこまで、自分は危険な立場だったのか。何も知らず、何も気付かず、暢気に学校だ恋愛だと毎日を楽しんでいた裏側で。この父親は、何ら自覚していない自分を、今まで守っていたのか。それでいて、父親の事前の警告を活かしきれなかった疾を、責めないのか。
ならば、今回の件は──おそらく本当に、どうしようもなかった。
疾にも、甘さがあった。父親にも、手の届かない所があった。そこを、あの残虐な子供に突かれてしまった。
だから。
「なあ、父さん。俺も……俺が持つ力も、魔術とやらなのか?」
「……疾」
「教えてくれ」
はっきりと、頼む。言葉を失った父親に、静かに告げた。
「父さんの知っている知識を、技術を、教えてくれ。俺が、今、父さんに封じられてる力を、ちゃんと使いこなせるように。……2度と捕まったりしないように、戦う方法を、教えてほしい」
「疾……よせ。疾はもう、十分戦った」
父親の哀願に近い声に、また首を横に振る。
「戦うどころか、逃げる事も出来ずに捕まった。このままなにもしなければ、また、同じ事の繰り返しになる」
何も知らない子供を多忙な父親が守りきるなんて、無理だ。今まで守り切れたのだからこれからも大丈夫、とか、そんな希望的な考えが通用する相手じゃないのは、身をもって思い知った。
「繰り返さない。……疾、頼む。信じてくれ」
「疑ってるわけじゃないって。……分かってる。父さんは出来ないことは約束しない。ちゃんと、本当に、俺を守りきる気でいるよな」
でも、と、疾は1度視線を床に向けて、静かに笑う。
「それ、さ……何か、捨てるんだろ」
「っ」
息を呑んだその顔に、疾はまた少し笑った。予想が当たったことに、苦しさも感じながら。
「簡単に出来るなら、父さんは最初からやってる。けど、今になって改めてそう言うっていうのは……何か、犠牲となるものがあるからだ。本当は捨ててはいけないものを捨ててでも、俺を守ろうとしてくれてる」
今回、1度たりとも仕事を、妻と娘を、省みずに疾を看病したように。
例え喪いたくないものを捨ててでも、疾を守ろうとするのだろう。
「……ありがとう」
「疾?」
「父さんが、そうやって味方でいて、守ってくれたから……俺は、ここにいる」
これまでの庇護も。これまでの看病も。どちらもなければ、疾はこうしてはいなかった。
危険に晒される日々を過ごしていたら、屈託なく笑って、暢気な生活を楽しめなかった。その中で、知識を蓄積することも出来なかった。絶望のどん底に突き落とされて心は半ば壊れて、父親が付ききりでひたすらに守ってくれなければ、疾は戻って来られなかった。
そして、何より。……こうして、何があっても守る覚悟を決めてくれているから、疾は選べる。
「俺は、さ。恵まれてると思うよ」
「疾……?」
「頭も運動神経も良い。判断力も、まあ、母さんには負けるけど、優れてる方だと思う」
「疾、何を」
「けど、さ。……楓は?」
父親が、軽く目を見開く。虚を突かれたと言うよりは、それに疾が気付くとは思っていなかったかのような反応。
疾は、良い。護身術を教わっても、学問を学んでも、スポンジが水を吸うように学び取れた。飛び級しても授業は退屈で、天才と呼ばれる立場である自負もあった。
けれど、楓は──普通だ。
頭が良い訳でも、運動が出来る訳でもない。音楽が好きで料理が好きで、でも、それだけだ。疾のように、何か突出した能力は持ち合わせていない。
ならば。
「父さん、言ったよな。父さんの子供だから、興味を持ったと。──だったら楓も、だろ」
「っ……」
父親がぐっと顔をしかめた。迂闊に口を滑らせたことを後悔するような反応に、疾は小さく苦笑する。
「俺と楓。どっちが戦う事を選ぶかっていうなら……絶対に俺だ」
「疾、やめろ」
父親が立ち上がって、疾の肩を掴んだ。痛いほどの力を手に込め、疾の目を覗き込む。
「そんな理由で、選ぶな。疾は疾だ、楓のことは俺達が何とかする」
「……別に、楓に守られる立場を譲るって訳じゃない。ただ、この方が──守りは確かだろ?」
「疾……良い、そんな事を気にしなくて良い」
「父さんや母さんだけでは手が届かないものを、俺が守る。俺が守りきれないものを、父さんと母さんが守る。そうすれば、家族みんな、絶対に守れる。……自分の為だよ、父さん」
至近距離で父親の目を見返し、疾は少し、自嘲気味に笑う。
「……怖いんだ」
「!」
父親の目が、見開かれた。息を呑む父親の顔を見ながら、疾は出来るだけ冷静に訴える。
「まだ、どうしようもなく、怖い。このまま守る術もなく、前へ進めない。……あの子どもがまた、俺の目の前に現れたら、何も出来ずに捕まってしまう」
全身に余すことなく刻みつけられた、恐怖。こうして冷静に話が出来るようになっても、少しも薄れず疾の中に深く根付いている。
「そうなったら、今度こそ俺、戻れない。……ごめん」
「っ、疾……」
「父さんを疑ってるんじゃないんだけどな。けど……駄目なんだよ」
粟立つ肌をさすって、疾は苦く笑った。
「例え、目の前にどれだけ安全だと保証するものが示されても、多分、意味がない。俺が無力でいる限り、これは消えてくれない」
「……」
「外に出られないのも、そういう理由だと思う。……情けない事言ってばかりで、ごめん。けど、……俺が、戦えて。その分、父さん達に出来る事が増えて。結果的に、俺が守られるのなら」
それならば、きっと。
「その為なら、俺、力が欲しい。……じゃないとこの先、どうして良いか分からない」
「疾」
ぐっと、抱き寄せられる。抵抗せず身を任せる疾に、父親の囁き声が届く。
「……分かった」
「じゃあ……」
「ああ。俺の持つものを、全部教える。……ただし、これだけは覚えていてくれ」
しっかりと疾の身体を支えたまま、父親は静かに告げた。
「力を得る事を、前に進む原動力にするのは、良い。だが、それは逃避や依存と紙一重だ。間違って溺れれば、全てを無に帰す。俺がこれから疾に教えるものは、そういうものだ。それを念頭に置いて、取り組め」
疾は、父親の言葉を反芻する。躊躇いを残したまま呑み込んでは、また間違ってしまう。
(今度こそ、……間違えて、誰かを傷付けない)
アリスが、どうなったのか。それを知るのは、もう少し先に延ばしておく。だって、今のままでは、自分はアリスの顔を見に行くことすら出来ない。
縋らず、もたれず。自分の足で立って、前に進むために。無意識に隠しこんでいた力を、自分のものにする。
「……うん。父さん」
しっかりと、返事をして。
「何度でも、言って。俺が、絶対に忘れないように」
自分の弱さを、認めて向き合う。
「……ああ」
目を細めて、父親は疾の頭を撫でた。懸命に前へと進もうとする強さに、敬意を示して。
「疾」
「うん?」
「疾は、俺の自慢の息子だ。疾が俺の子である事を、誇らしく思う」
「……急になんだよ」
面映ゆそうな息子の髪をくしゃくしゃとかき混ぜて、父親はそっと笑った。




