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疾き波は岩をも割き  作者: 吾桜紫苑
1章 はじまり
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25 退院

 疾が父親との約束を果たせたのは、それから、ひと月以上かかった。


 部屋を訪れる人間に、闇雲に恐怖せず会話出来るようになって。いきなり手を伸ばされなければ、診察も平気になった。

 短い時間なら、父親が席を外していても、もうパニックを起こさない。父親が持ってきた本を読んで時間を過ごせば、ある程度日中は起きていられる。食事も、ほぼ全量食べられるようになっていた。


 少しずつ、生活のサイクルが戻ってきて。それでも──未だに、部屋の外からは出られない。


 1歩、扉から出ると、足元から震えが込み上げて、へたりこんでしまう。安全な場所と認識した部屋から、どこへも行けないまま。

 このままでは良くないと、何度も試したけれど、結果は同じだった。寧ろ、その後の時間が酷く不安定になるからと、父親に禁じられた。


「そのうち、気付いたら出られる時が来る。無理に出ようとするな」

「……ああ。他も良くなったし、大丈夫だな」


 そう頷ける程度には、不安感は収まっていた。




 そして。


「身体の方はもう、いつでも退院出来るが。どうする?」


 医師に軽く尋ねられて、疾は咄嗟に父親を見上げた。父親は少し考えて、疾を見下ろす。


「家に、帰りたいか」

「……いや」


 それには、はっきり答えを持っていた。少し躊躇って、言う。


「まだ……そこまで、普段通りに戻れない」

「……戻れなくても、いいんだぞ」

「いやだ」


 きっぱりと言って、疾は父親の顔を真っ直ぐ見た。


「楓が、怯えるだろ。心配させたくない」

「……」


 楓が酷く他人の感情に敏感なのは、疾が1番最初に気付いた。感情の揺れに巻き込まれて泣き喚く幼少期、遊んでいた疾は良く宥めていた。

 今は受け流せるようになっているようだが、それでも、自分の恐怖は無条件に楓を怯えさせるだろうと、何となく分かった。


「……入院がこれ以上厳しいなら……しかた、ないけど」


 ちらりと医師を見ながら、疾は付け加える。我が儘を言って、父親を困らせるつもりもなかった。


「……分かった。じゃあ、こうしよう。退院はするが、家には戻らない。仕事用に借りた部屋に移動する」


 父親の提案に、ほっと息を吐いて頷く。成り行きを見守っていた医師が、陽気に手を叩いた。


「それなら手続きに入ろう。疾、退院おめでとう!」


 明るく言われて、疾は頭を下げた。


「ありがとう、ございます。……お世話になりました」

「ははっ、こいつの息子とは思えんな」

「うるさい」


 気安く話す医師と父親のやりとりに、疾は表情を和らげた。






 そうして手続きを済ませ、移動した部屋は、3LDKの広く、居心地の良さそうなアパートだった。


「えっと……?」

「約束したからな。説明する」


 とはいえ、唐突に「行くぞ」「お大事に」のやり取りの次の瞬間には病院からここに移動していた疾としては、そんな事より状況の把握が出来ない方が問題だったのだが。


「あの……父さん?」

「なんだ」


 無表情で見返されて、口を開閉した疾は、結局ただ、首を横に振った。


「……いや、なんでもない」

「そうか」


 それどころではなくて失念していたが、疾の父親は、なんだかよく分からない思考回路が繋がると、突拍子もない事をしでかす人物でもあった。ちなみに、この性質は楓が余すことなく受け継いだのは、疾も母親も確認済である。

 脱力気味に口元を緩めた疾は、父親が安堵の色を浮かべて目を細めた事には気付かなかった。

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