24 想起
「っ、あ、れ……?」
独りでに震える両手を見下ろし、疾は目を見開いた。
(なんで……)
今はまだ、頭は冷静で。パニックに陥っていないのに、どうして震えている。
「大丈夫だ」
父親が、ふわりと疾の身体を抱きしめた。温もりに心は落ち着くのに、その分だけ疾の身体は震えを大きくしていく。
「疾」
「なんだ、これ……っ、おれ、まだ、なんにも」
「疾、落ち着け。慌てなくて良い」
父親の声はきちんと届いているのに。身体の震えが、止まらない。がちがちと奥歯まで鳴り出して、下手に声を出せば舌を嚙みそうだ。
(何で、勝手に……っ)
心とは裏腹な反応を示す身体に、困惑する疾は、唐突に思い出す。
──鉄格子の中の部屋。冷たい枷。
──白衣の人々が手を伸ばす度に、与えられる苦痛。
──不気味な液体を流し込まれ、変質していく身体。
──得体の知れない、体内を蠢く力。
それら全て、あの悪夢の中で植え付けられたものを。
「っ……あ……!」
「っ、疾……疾、こっちを見ろ」
父親が何か言っているが、もう、その声が届かない。抱きしめる温もりすら、分からない。
「い、やだぁああ……っ!」
時折フラッシュバックする以外、全て曇りガラスの向こう側に押しやっていたものが、一気に流れ込んできた。
味わった恐怖も、痛みも、絶望も。
自分が自分でなくなっていくおぞましさも。
裏切ってしまった少女の、悲鳴も。
中途半端に客観性を取り戻し、少女のことを思い出したのを引き金に、疾の記憶が鮮明に蘇ってしまった。
「疾……っ」
「い、や……いやだ……っぐ、ぇ」
「疾!」
吐き気を催して、胃の中のものを全て吐き出す。自分の中が酷く汚い様な気がして、指を喉に押し込んで、更に吐き出そうとした。
「疾、やめろ。自分を傷付けようとするな」
「ぁ、う、え……っぐ」
指を引き抜かれて、抱きしめられる。服が汚れる、と分かっていて、それでも吐き気が止まらずに何度もえづく。背を強い力で何度も撫でられた。
(……だ、めだ)
変質しきった自分の中のモノが、触れたところから父親にうつって、汚していく。そんな感覚に陥って、疾は身を捩る。
「疾?」
「とう、さん……だめだ、離れて、きたない……」
「俺が汚い?」
「ち、がう……汚れる、父さん、離れて……」
「──疾」
ぐっと抱き寄せられて、もがく疾を胸に抱え込んで。父親は言葉を絞り出した。
「汚くなんかない。疾は、何もおかしくない。大丈夫だ」
「い、や……だ、めだ」
「疾は、壊れてなんかいない。おかしくない。……何を言われた」
父親の胸に顔を埋めたまま、疾は黙って首を振る。背を撫でられた。
「全部、否定してやるから。言え」
「……異常、だって……他の人と、違う、って……あいつに、触られるだけ、壊れて……っ」
「疾は正常だ、俺と何も違わないだろう。……壊れていない。ちゃんと、傷も癒えてきただろう。何も変わってない」
「ち、がう……っ」
それは違うと、疾は首を振った。だって、分かってしまうから。
「何か、変なものが……身体の中に、あって、それで」
「……」
「それが、俺を壊して、だから、これ、俺が元々」
「疾」
混乱した言葉を遮るようにして、父親が名前を呼ぶ。ますます腕に力を込めて、身体に直接落とし込むように言葉を囁いた。
「もう少し、時間をおこう。ちゃんと全部、説明する。けど、これだけは信じろ。──それは、異常なんかじゃない。疾を壊すものじゃない」
「……異常じゃ、ない?」
「ああ。……けど、今は少し、封じておこう」
その言葉と同時に、疾の中で気味悪く蠢いていた何かが、死んだように静まりかえった。たったそれだけで、疾の身体の震えが止まる。
「あ……」
「もう少し、しっかり治ってから、それが何なのか教えてやる」
そっと頭を撫でられると、一気に眠気が押し寄せてきた。殆ど眠気に支配されながら、疾は父親の呟きを夢うつつに聞く。
「──その時に、好きな方を選べ。どっちでも、今度こそ……守る」




