230 小さな異変
運ばれてきた食事を食べ終えて、疾は起こしたベッドに背を預けて身を休めていた。
ぼんやりと天井を見上げながら、疾は記憶を遡っていく。
(今回は……完全にしてやられたな……)
警戒を怠ったつもりはない。リスクも見据えた上で、優先順位を見定めて踏み込んだ。想外の事態が起きても対応出来るようにと十二分に備えていた。罠と気付いた後の判断も対処も、決して間違っていたわけではない。一つ一つの判断自体は、正しい。
──判断そのものが、総帥によって誘導されたものだっただけだ。
「……ちっ」
本人との接触はたったの二回だ。その二回とこれまでの襲撃データを元に、疾の行動、思考パターンをこれだけの精度で見極められるとは。忌々しさに舌打ちをこぼしたところで、疾はふと瞬く。
(──本当に?)
天井を見上げたまま、疾の視線はここではないところへと飛ぶ。
直接に関わることはなかったものの、機械仕掛けの神による侵攻とそれに付随した事件は、疾に小さくない影響を与えた。
機械仕掛けの神の演算能力、世界への干渉能力は、疾と相性が良すぎた。
知らず、疾の思考が切り替わった。琥珀の瞳から感情が消え失せる。
(前提を見直す)
疾が一連の失態を相手の掌の上と断じられるのは、実際にそれを可能とする人間を知っているからこそだ。相手を低く見積もって返り討ちにされるなど論外、あらゆる可能性を想定すべきだという前提で疾の思考は進められる。
だが更なる前提条件として、可能とする人間──疾の母親という人物が、おそらく世界中ひっくるめても確実に5本の指に入るレベルの、というかほぼ人間離れした頭脳を持っているということも忘れてはならない。
(あれは異能だ)
実際に疾の目で観測できたわけではないが、直感的に疾は母親の演算能力を異能由来のものであると感じ取っている。これまで異能を持つ者を幾人も見てきたが故の、半ば確信に近い憶測だ。
そして、それが疾の疑念を裏付けしてしまう。
疾と総帥の手持ちデータに大きな差はない。確かにここ最近頻繁に襲撃を行っている疾の行動データは入手しやすいだろうが、魔法士協会の侵略史を丁寧に紐解いてきた疾とて、総帥のデータを分析という形で入手している。
それを踏まえた上で、今回総帥が疾に仕掛けてきたような罠を、疾が総帥に仕掛けることが現段階で可能か。
(──不可能)
手数の差というのは確かに大きい。だがそれ以前に、今回のようにぴたりと行動を読み切って仕掛けることができるかと言えば、無理だと言い切れる。
だが実際に、総帥はやってのけた。いくつかの行動パターンを想定し逃げ場を潰すという安全策は見て取れるが、疾には到底できない精度で読み切ってきた。
(可能となる条件は──総帥が彼女と同等の演算力を持ち合わせている。あるいは──)
──疾よりも遥かに多くの情報を握っている。
「……」
『おまえのような化け物が、これまで何を見てきたか──何を見ない振りしてきたか、なかなか興味深いからね』
その言葉が文字通り、過去のみならず未来までもを指していたのならば。
この紛い物の右目で、総帥が、疾のこれまでを見ていたのならば。
(それは、今すぐ排除すべき、障害だ)
判断を下し、無自覚のまま、疾の手が右目に伸びる。指が触れ力がこもり、そして──
「ごめん、ちょっといいかな」
──医師は扉を開けて一歩踏み込んだ瞬間に、足を止めた。
「……」
「……」
右目に触れたまま医師を無感動に見据える左目は、ひどく無機質な、金属の色をしていた。
それを見てとった医師は目を細めて、もう一歩踏み込む。
「──疾くん。面会だよ」
その言葉を聞いて、疾はパチリと瞬いた。
「……は?」
胡乱げな声を漏らした疾の瞳は、すでに元通りの琥珀に、声と同じ色を乗せていた。それを確認して、医師はにっこりと笑む。
「まあ、人間ではないみたいだけどねえ」
「帰らせろ」
「ええっ!?」
ショックを受けたような声を出して飛び込んできたのは、赤い髪に赤い着物を纏った女の子──セキだった。
「……何の用だ」
胡散臭いものを見るような目を向ける疾に、ショックから立ち直ったらしいセキは胸を張った。
「お見舞いです!」
「帰れ」
「何でですかある──いったあ!?」
余計なことを言いかけたセキを、側に置いてあったシャープペンを額に的中させて止める。他人がいる前で何を言いやがる気だこの雀。
そのやりとりをしている間に、残りの三柱も入室してくる。全員が人型で一応陰行はしているようだが、この医師のように見鬼の才があるものには見える状態だ。つまりこの特別病棟の関係者にはほぼ見えているわけで──疾は部屋外の様子を想像することを放棄した。
やりとりを見ていた医師が楽しげに笑いだす。
「ははは、楽しそうだね」
「目おかしいんじゃないのか」
「それは君の方だろ?」
あっさりと踏み込んできた医師に顔を顰める。医師は一切気にせず続けてきた。
「君の右目についても前の担当医から引き継いでるわけだけど、こっちにきてから精密検査は出来ていなかっただろう」
「初診時の検査は?」
「あれはどちらかと言えば現状の魔力回路の評価を優先していたからね。体調的に」
最後の一言で反論を封じられた。眉を寄せつつ、疾は返した。
「それで、今やろうってか」
「うん。で、ちょうどいいタイミングでその辺をうろうろしていたこの子達がいたので声をかけて入ってきてもらったんだよねえ」
「……そうか」
色々ツッコミたいことはあったが、話が進まないので流すことにした。何となくこれまで聞いた話と言動から、異世界邸の元住人であるこの医師に常識とか良識を求める方がどうかしている。
それに、疾も四神に確認しておきたいことがある。
(……まあ、流石にこいつがいる前では聞けないが)
チラリと視線を医師に向けると、医師はにこりと笑った。




