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疾き波は岩をも割き  作者: 吾桜紫苑
1章 はじまり
23/232

23 療養

 それからどれ程の日数が経ったのか、疾は良くわからない。


 悪夢に跳ね起きては、父親に声をかけられて我に返り、平静を取り戻す。問題なく会話していた次の瞬間には、少しの刺激で不安が込み上げ、パニックに陥る。


 疾自身、なぜパニックになるのかすら、よく分からなかった。何かのスイッチが壊れたかのように、唐突に恐怖が込み上げてきて、理性を押し流す。

 そうなるともう、何もかもが分からなくなって、闇雲に逃げだそうと暴れてしまう。目の前にいる人が誰であれ恐怖の対象で、いくら親切にしてもらってもダメだった。


 唯1人、父親だけが、疾に冷静さを取り戻させる。腕に抱え込まれて、何度も大丈夫だと言われて。ようやく我に返れば神経がすり減っていて、落ちるように眠る。起きていられる時間は、日の4分の1もない。

 視界から父親がいなくなるだけで身体が強張り、呼吸もまともに出来なくなる。側にいる父親に何度も大丈夫だと言われて、ようやく医療者達の診察や治療を受けられる。


 そんな状態が続いているから、父親は常に疾の側にいた。不安を和らげる薬の使用も医師から提案されたが、どうしても使えなくて。疾にとって唯一の精神安定剤が、父親だった。

 大丈夫だと、1人で平気だと強がろうとしても、父親には見透かされて。事実、ほんの少し席を離している間に疾が目覚めた時は、声も出ないほどパニックになったことがあるから、強がることも出来ない。


「……ごめん、父さん」

「だから、謝る事じゃない」

「でも、仕事……全然、行けてないだろ?」

「俺が居なくても会社は回る。心配しなくて良い」

「ごめん……」


 きっぱりとそう言ってくれる父親に甘える自分が情けなかった。こうして会話している時には、以前と変わりないように思えるのに。いざ離れると、まともに会話も出来ないから、疾は心苦しさに俯いた。


「……疾」


 少し間を置いて、父親がゆっくりと疾を抱き寄せた。もう子供ではないのに、その温もりに酷く安心する自分がいて、ますます落ち込む。


「何度も言っているだろう。お前は、悪くない。酷い目に遭ったんだから、恐怖が残って当たり前なんだ。ゆっくり癒せば良い」

「……」

「身体の傷も治りきっていないんだ、慌てる必要は無い」

「……ごめん」


 結局、謝ってしまう疾の頭を、父親は何も言わず、ただ撫でた。






 食事は、口に運ぶだけで吐きだしてしまう方が多かった。食べなければいけないと分かっていても、身体が受け付けない。何かを口に入れることに、凄まじい嫌悪感が付きまとった。

 食べやすいようにと、父親が様々な物を冷蔵庫に置いてくれて。比較的安定している時に、食べられそうなものを少しずつ流し込んで。それが、やっと。


 本当は点滴をした方が良いけれど、若いんだし何とかなるさ、と笑ってくれた医師は、おそらく良い医師なのだろう。白衣も疾がパニックを起こしてからは纏わず、フランクなTシャツ姿で顔を出すようになった。

 それでも、近付かれるだけで、手を伸ばされるだけで強張るのは、どうしようもなくて。言葉も出ず怯え続ける疾に、けれど医師は根気強く付き合ってくれていた。


 少しずつ、少しずつ。自分の現状と向き合って、懸命に元に戻ろうとする疾を、周囲も無理に励まそうとせず、見守ってくれていたのが良かったのだろうか。本当に少しずつだが、疾は、現実と悪夢の識別が付いて、パニックを避けるように立ち回れるようになっていった。


「随分、傷も良くなった。あと少しだからな」


 笑いかける医師に、疾は俯きがちに頷き返す。声を出せば震えそうで、それしか出来ない。気付かないふりで、医師は踵を返して出て行った。

 ほっと息を吐き出す疾を、父親が静かに抱きしめる。身体の緊張が解けていくのを待って、疾は自分から体を起こした。最近は、自分で離れることも出来るようになっていた。


「……父さん」

「どうした?」


 疾は1度口を開けて、閉じた。しばらく躊躇って、恐る恐る尋ねる。


「……アリス、は……どう、なったの」



 少しずつ冷静でいられる時間が増えてきた疾は、ようやく、自分以外の事に目が向く余裕が生まれてきた。そうして真っ先に気にかけたのは、自分と同じく誘拐された少女の事。



「……疾。今はまだ、他人のことを気にしなくて良い」

「でも、俺……俺の、せいで」

「違う」


 遮るように否定されて、疾の肩が跳ねる。父親は頭を軽く撫でて、静かに諭した。


「疾のせいでは、ない。今回の件で、疾は何も悪くない。悪いのは、お前を攫った奴だ」


 脳裏に過ぎった子供の姿を、首を激しく振って追い出す。1つ息を吸い込んで、顔を上げた。


「……アリスは、助けられたのか?」

「……疾」

「父さん、教えて。俺、大丈夫だから」


 父親が黙り込む。それほど言いづらい状態なのかと不安が込み上げる疾に、父親は息を吐き出しながら、また頭を撫でる。


「……わかった。言葉を濁しても、疾は安心出来ないな」

「うん」

「あの子も、疾と同じくして助け出され、この病院に運ばれた」

「じゃあ……」


 この建物のどこかにいるのだろうか。なら、もう少し落ち着けば、見舞いに行けるだろうか。そう思った疾の心を読んだように、父親は首を横に振る。


「身体の傷を治療し終えて、今は別の病院に移っている」

「……え?」

「この病院は……あの子が長くいる場所じゃない」

「どういう……意味……」


 問いかけながら、疾が思い出したのは、嘲るように告げられた言葉。『あの子は、おまえと違って普通の子だ』と、子供が言っていた。


「……アリスは……大丈夫、なのか」

「…………」


 しばらく黙った父親は、言葉を選んで、丁寧に答える。


「全くの無傷ではない。だが、疾に俺が付いているように、あの子にも両親と兄が付いている」

「……そ、う」


 父親は、自分達に嘘をつかない。だからこんな言い方をしたのだろう。


(アリス……ごめん)


 きっと、自分と同じかそれ以上に傷付いた。その傷の痛みを、少しでも変わってやれたら良いのにと思う。……彼女は、自分と付き合ってさえいなければ、こんな事にはならなかった。

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