23 療養
それからどれ程の日数が経ったのか、疾は良くわからない。
悪夢に跳ね起きては、父親に声をかけられて我に返り、平静を取り戻す。問題なく会話していた次の瞬間には、少しの刺激で不安が込み上げ、パニックに陥る。
疾自身、なぜパニックになるのかすら、よく分からなかった。何かのスイッチが壊れたかのように、唐突に恐怖が込み上げてきて、理性を押し流す。
そうなるともう、何もかもが分からなくなって、闇雲に逃げだそうと暴れてしまう。目の前にいる人が誰であれ恐怖の対象で、いくら親切にしてもらってもダメだった。
唯1人、父親だけが、疾に冷静さを取り戻させる。腕に抱え込まれて、何度も大丈夫だと言われて。ようやく我に返れば神経がすり減っていて、落ちるように眠る。起きていられる時間は、日の4分の1もない。
視界から父親がいなくなるだけで身体が強張り、呼吸もまともに出来なくなる。側にいる父親に何度も大丈夫だと言われて、ようやく医療者達の診察や治療を受けられる。
そんな状態が続いているから、父親は常に疾の側にいた。不安を和らげる薬の使用も医師から提案されたが、どうしても使えなくて。疾にとって唯一の精神安定剤が、父親だった。
大丈夫だと、1人で平気だと強がろうとしても、父親には見透かされて。事実、ほんの少し席を離している間に疾が目覚めた時は、声も出ないほどパニックになったことがあるから、強がることも出来ない。
「……ごめん、父さん」
「だから、謝る事じゃない」
「でも、仕事……全然、行けてないだろ?」
「俺が居なくても会社は回る。心配しなくて良い」
「ごめん……」
きっぱりとそう言ってくれる父親に甘える自分が情けなかった。こうして会話している時には、以前と変わりないように思えるのに。いざ離れると、まともに会話も出来ないから、疾は心苦しさに俯いた。
「……疾」
少し間を置いて、父親がゆっくりと疾を抱き寄せた。もう子供ではないのに、その温もりに酷く安心する自分がいて、ますます落ち込む。
「何度も言っているだろう。お前は、悪くない。酷い目に遭ったんだから、恐怖が残って当たり前なんだ。ゆっくり癒せば良い」
「……」
「身体の傷も治りきっていないんだ、慌てる必要は無い」
「……ごめん」
結局、謝ってしまう疾の頭を、父親は何も言わず、ただ撫でた。
食事は、口に運ぶだけで吐きだしてしまう方が多かった。食べなければいけないと分かっていても、身体が受け付けない。何かを口に入れることに、凄まじい嫌悪感が付きまとった。
食べやすいようにと、父親が様々な物を冷蔵庫に置いてくれて。比較的安定している時に、食べられそうなものを少しずつ流し込んで。それが、やっと。
本当は点滴をした方が良いけれど、若いんだし何とかなるさ、と笑ってくれた医師は、おそらく良い医師なのだろう。白衣も疾がパニックを起こしてからは纏わず、フランクなTシャツ姿で顔を出すようになった。
それでも、近付かれるだけで、手を伸ばされるだけで強張るのは、どうしようもなくて。言葉も出ず怯え続ける疾に、けれど医師は根気強く付き合ってくれていた。
少しずつ、少しずつ。自分の現状と向き合って、懸命に元に戻ろうとする疾を、周囲も無理に励まそうとせず、見守ってくれていたのが良かったのだろうか。本当に少しずつだが、疾は、現実と悪夢の識別が付いて、パニックを避けるように立ち回れるようになっていった。
「随分、傷も良くなった。あと少しだからな」
笑いかける医師に、疾は俯きがちに頷き返す。声を出せば震えそうで、それしか出来ない。気付かないふりで、医師は踵を返して出て行った。
ほっと息を吐き出す疾を、父親が静かに抱きしめる。身体の緊張が解けていくのを待って、疾は自分から体を起こした。最近は、自分で離れることも出来るようになっていた。
「……父さん」
「どうした?」
疾は1度口を開けて、閉じた。しばらく躊躇って、恐る恐る尋ねる。
「……アリス、は……どう、なったの」
少しずつ冷静でいられる時間が増えてきた疾は、ようやく、自分以外の事に目が向く余裕が生まれてきた。そうして真っ先に気にかけたのは、自分と同じく誘拐された少女の事。
「……疾。今はまだ、他人のことを気にしなくて良い」
「でも、俺……俺の、せいで」
「違う」
遮るように否定されて、疾の肩が跳ねる。父親は頭を軽く撫でて、静かに諭した。
「疾のせいでは、ない。今回の件で、疾は何も悪くない。悪いのは、お前を攫った奴だ」
脳裏に過ぎった子供の姿を、首を激しく振って追い出す。1つ息を吸い込んで、顔を上げた。
「……アリスは、助けられたのか?」
「……疾」
「父さん、教えて。俺、大丈夫だから」
父親が黙り込む。それほど言いづらい状態なのかと不安が込み上げる疾に、父親は息を吐き出しながら、また頭を撫でる。
「……わかった。言葉を濁しても、疾は安心出来ないな」
「うん」
「あの子も、疾と同じくして助け出され、この病院に運ばれた」
「じゃあ……」
この建物のどこかにいるのだろうか。なら、もう少し落ち着けば、見舞いに行けるだろうか。そう思った疾の心を読んだように、父親は首を横に振る。
「身体の傷を治療し終えて、今は別の病院に移っている」
「……え?」
「この病院は……あの子が長くいる場所じゃない」
「どういう……意味……」
問いかけながら、疾が思い出したのは、嘲るように告げられた言葉。『あの子は、おまえと違って普通の子だ』と、子供が言っていた。
「……アリスは……大丈夫、なのか」
「…………」
しばらく黙った父親は、言葉を選んで、丁寧に答える。
「全くの無傷ではない。だが、疾に俺が付いているように、あの子にも両親と兄が付いている」
「……そ、う」
父親は、自分達に嘘をつかない。だからこんな言い方をしたのだろう。
(アリス……ごめん)
きっと、自分と同じかそれ以上に傷付いた。その傷の痛みを、少しでも変わってやれたら良いのにと思う。……彼女は、自分と付き合ってさえいなければ、こんな事にはならなかった。




