20 暗闇
目を覚ました時、疾は暗闇の中にいた。
(……ここ、は……?)
苦痛と恐怖が全てを占めてから、どれくらいの時間が経っただろう。今もその中に、自分はいるのか。……いや、違う。
(父、さん……)
確かに、記憶に残っている。父親が、自分を呼ぶ声を。痛いほどの力で抱きしめる、腕の温もりを。
(どこ、に……?)
あれから自分は、どうなった。父親はどこにいる。
幾筋かの光だけが走る、そのくせ他のものは一切見えない奇妙な暗闇の中。柔らかなものに横たわっているような感覚が、背に伝わってくる。けれど、それが何なのかは、全く見えない。
何一つ分からず、疾は息を潜めるようにして首を巡らせた。視界は、何ら変わらない。
(なんで……)
何が起こっているのか。今自分は、どうなっているのか。
何も分からず、目を見開いて身を縮めていた疾は、唐突に腕に触れる感触にびくりと跳ねた。
(なに……!?)
音も声も、姿すらも見えないのに。確かに腕に触れたのは、人の手の感触で。
苦痛を与えられ続けた疾の身体が、反射的に逃げを打とうとする。しかし、1度撥ね除けた手は急に力を増して、疾が横たわる床に押しつけてきた。
(いやだ……!)
悪夢は、まだ終わらないのか。
それとも、父親がいたと思ったのこそが夢で、まだあの地獄は続いているのか。
必死で腕に力を込めるのに、相手の手は外れない。それどころか、逆の手も強い力で押さえつけられた。掠れきった悲鳴が喉から漏れる。
(はなせ……っもう、いやだ……!)
何もかもが怖くて。嫌で。逃げたくて暴れる疾はしかし、次々と増えていく手に押さえ込まれていく。
(なんで……!)
何故、視界に映らない。この幾つもの腕を持つ相手は、何ものだ。
分からない。怖い。逃げたい。──逃げられない。
がむしゃらにもがく疾の左腕に、ちくりとした痛みが走った。
「っ……!!」
何度も何度も苦痛を与えたその感触に、ますます疾は暴れる。もう、本当に嫌で。いっそ、苦痛も恐怖も分からなくなってしまえば良いのに。
疾の身体は、見えない手に押さえつけられたまま動かない。それでも必死で暴れていた疾は、くらりと意識が遠のくのを感じた。
(……とう、さん……)
助けに来てくれたのではないのか。何故、こんな所でこんな目に遭っているのか。
──おまえを助ける奴なんて、どこにもいないよ。
無邪気な声が蘇る中、疾の意識は闇に沈んだ。
眠れば、悪夢を見る。
鉄の枷に囚われた中で、苦痛を与えられる夢を見る。
「まだ、夢だと思ってるの? 現実だってば」
嘲笑う声に震えて、焼け付く痛みに悲鳴を上げて。
傷付けられる少女の姿に、手を伸ばそうともがいて。
そして、また目を覚ます。
光の帯だけが走る暗闇の空間で、得体の知れない手に押さえつけられては薬を打たれ、ぐにゃりと体から力が抜けて沈み込む。手足に何かが巻き付けられて、身体の自由が奪われる。
身体を弄り回す手は痛みを生み出しはしないけれど、不気味なそれらは疾の精神を削っていく。
どこまでが夢で、どこからが現実なのか。
未だに自分は、実験動物でしかないのか。それなら何故、父親はあの場にいた。
──見捨てられた、のか。
そんな恐ろしい結論を、必死で撥ね除けようとして。そのまま呑み込まれかけていた疾は、おそらくこの時、本当に壊れかけていた。
この状況が続けば、本当に、二度と現実を認識出来なくなっただろう。
幾度目かの覚醒で、身体全体を巻き込むような拘束の力に暴れていた時。
『疾!』
「……!」
聞こえた。
(とう、さん……?)
顔を上げても、待ち侘びた父親の姿はない。見えない拘束が纏わり付くばかりだ。
拘束を逃れて父親の姿を探そうとする疾の耳に、再び、声が届く。
『疾?』
「と……さ、ん」
(どこ……?)
声だけが聞こえるのはどうして。こんな暗闇にひとりぼっちにするのはどうして。
何故、助けてくれない。
『……疾、今は聞こえるな』
「きこ、える……とうさん、どこ……っ」
『落ち着け、疾。俺はここにいる』
「わかん、ない……っ」
もう、何もかもから逃げたくて。声だけの父親に、必死に縋り付く。
「たすけて……もう、やだ……いやだ……!」
『疾、落ち着け。ここはもう、あの場所じゃない』
「いやだ、ここ、こわい……!」
『何が怖い』
「てが、くらくて、なにもないのに、おさえて……!」
『何もない……? 疾、まさか』
父親の声が止む。ひくりと息を呑んで、疾は暴れた。
置いて行かれる。……見捨て、られる。
「いやだ……っとうさん!」
『っ、疾……顔を上げろ』
「なに……っ!」
疾は、大きく目を見開く。そこには、父親の顔があった。
『見えるか』
必死で頷く疾の頬を、父親がそっと撫でる。父親は改めて疾の身体を抱きしめた。疾の手が、縋り付くように父親の服を掴む。
『もう、大丈夫だから。これ以上、自分を傷付けるな』
「わかん、ない……なんで、とうさん、おれ、へん」
何故、父親しか見えないのか。その父親ですら、奇妙な光で歪んで視えて、はっきりと顔が見えない。声も、くぐもったような響きで、良く聞き取れない。
周囲が変ではなく、自分がおかしいのだと。壊された、もはや自分の物と思えない身体が異常をきたしているのだと、半ば本能で悟った疾が、また恐慌に陥る前に。
『変じゃない』
ふわりと、掌で疾の目を覆い。
『少し、調子が悪いだけだ。ちゃんと見えるし、聞こえるようになる』
「……ほん、とうに……?」
『ああ。だから、父さんに任せて、今は寝ろ』
柔らかく響いた声に、疾は眠気が押し寄せるのを感じた。薬で強制されるのではない、緩やかな眠気に、しかし首を振って抗う。
「いや、だ……」
眠れば、悪夢を見る。目が覚めてもし、また父親がいなかったら。自分はもう、耐えきれない。
『……大丈夫だ。ちゃんと、側にいるから』
「いる……?」
『ああ。だから、今は休め』
その言葉に。疾は今度こそ、ゆるゆると眠りに沈んでいった。




