2 家族
「あら、やっと帰ってきたのね。こんな時間まで勉強してたの? 物好きねえ」
リビングに入ると、穏やかで綺麗な発音の声が疾に呼びかけてきた。制御された音声の品の良さは、育ちの良さなのか、単なるスペックが成す技なのか。
いずれにせよ、どこかずれた内容に、楓が呆れ気味に突っ込んだ。
「母さん……それ、親が言う台詞? どう考えたって夜遊び疑うところじゃん」
「あら? 疾、夜遊びだったの?」
「いや別に」
遊んでいたつもりもないので率直に答えると、呼びかけてきた主──疾の母が首を傾げて楓を見た。
「ですって」
「……ねえ母さん、なんで時々そんなにつるっと騙されるの? こないだなんて詐欺引っかかってたでしょ。結局とられたお金倍にして取り返したみたいだから、いいけどさ」
楓が頭痛をこらえるような仕草で言うも、ソファに座る母親はにこにこしたままカップを口元へ傾けた。マイペースなその様に、楓がふうっと溜息をつく。
「……お帰り」
「ただいま」
母親の隣に座る父親が挨拶だけで黙り込むのも、いつもの事。これ以上の会話を期待すると母親相手にノロケ出すので、疾も楓も絶対に触れない。
疾達兄妹とは似ても似つかず、この両親は純正日本人といった外見をしている。鴉の濡れ羽色という表現がぴったりの艶やかな黒髪に射干玉の瞳。2人とも整った顔立ちをしているが、特に母親の方は日本人形のようだと良く賞賛されている。……まあ、外見で最も人目に付くのは疾だが。
「兄さん、ご飯出来るまで30分。それまでにシャワー浴びてきてね、汗臭い」
「ご挨拶だな、了解」
台所を掌握してる妹に、空腹の今逆らうのは自爆行為だ。汗でべたついて鬱陶しかったのも事実だしと、疾は素直にシャワールームへ足を向けた。
本日の夕飯は、ジェノバソースパスタに白身魚のソテー、カルパッチョのサラダ。一見簡単なイタリアンだが、ソテーに使われている香草の種類は多く、カルパッチョも下ごしらえされていて、手間が混んでいる。
魚の焼き加減は水っぽくも固くもなく、皮はこんがりと焼けて風味を添えているし、フランスではなかなか珍しく鮮度の高い生魚を上手に切り分けている。パスタはきちんとアルデンテに茹であげられ、バジルの香りが食欲をそそった。
……相変わらず、やけに料理スキルの高い妹だと、疾は食事を味わいながら思う。
「もういっそ料理人目指せば」
「えーやだ、コスパ考えて材料妥協するとかやりたくない。作りたい味を思う存分手間かけて作るのが楽しいのに」
唇を尖らせる妹の反論が、無駄に現実味を帯びていた。これで11歳だというのだからすれている。
「じゃあもう少し勉強真面目にやれよ。中学校の勉強、小学校とは別物だぞ」
フランスのコレージュは日本の小6〜中3。4つ違いの疾と楓は、年齢上はそれぞれ小学最終学年と中学最終学年という差がある。
コレージュを卒業すると進路が本格的に別れる為、授業は選択制で、専門的な内容も学ぶ。最初の1年目はコレージュの勉強の仕方を学ぶのが目的だ。
その1年目を目前にして、既に勉強の雲行きが怪しい妹は、疾の指摘に視線を泳がせた。
「う……っだって」
「だってじゃない。点数酷いぞ、これ」
「待ってなんでそこに置いてあるの!? 常に全教科満点な兄さんと一緒にしないで!」
傍らからテストの答案を取り上げて言うと、楓が悲鳴のような反論をあげた。留年するレベルなわけではないが、この程度の問題ならば、もう少し良い点数が取れても良さそうなものを。
「答え書いてあるようなものだぞ、この時期のレベルって」
「知ってる? それは頭良い人の傲慢って言うの。私は兄さんに母さんのお腹から、運動神経と頭の良さを、ごっそり丸ごと持って行かれちゃったんですー」
「あら、そうだったの」
おっとりと首を傾げた母親の発言は兄妹共にスルーした。遺伝学の基礎まで叩き込んだ張本人が、真に受けるな。
「どの進路選ぶにも学問をやってて損はないんだから、最低限8割取れるまでは勉強しろよ」
「最低限のハードルが高すぎるってば。……分かってるよ、でも1人でやると時間かかるんだもん。また好物作ってあげるから教えて」
最近楓は、「好物を作るのと交換にお願い」というカードを多用する。通用しやすい手法を繰り返すのは悪い事ではないし、こればかりは飽きもないという強みがある為、暇があれば疾もそれなりに応じていた。
けれど、それもここまでだ。
「無理。これから忙しくなるから」
「は? もうすぐ試験だけど、その後はバカンスでしょ?」
疑わしげな目を向けてくる楓に、肩をすくめた。食事も食べ終わり、家族全員揃っているこのタイミングで、都合が良い話題が出て来たものだと思いつつ、疾は母親に視線を向けた。
「お袋」
「なにかしら?」
ポケットから端末を取りだし、疾は母親の目の前に突き出した。
「条件達成。約束通り、リセ……じゃない、高校は日本で通うぞ」
「…………は?」
ぽかん、としたのは楓だけ。母親はほんの少しだけ目を丸くして、けれどにこりと笑って頷く。父親は身動ぎ、もの言いたげにしたが、結局何も言わなかった。
「うん、よく出来ました。行ってらっしゃい。でも、バカロレアの試験まではちゃんと通いなさいね」
「分かってる」
確認には端的に答え、廊下に出る。自室の扉を開けた時、どたどたと廊下を走る音が近付いてきた。
「待って待って待って!? 何、日本ってどういうこと!?」
振り返ると、血相を変えた楓が詰め寄ってくる。軽く笑って答えた。
「言葉通りだろう。コレージュ卒業したら日本の高校に通う。以上」
「私日本語無理ですけど!?」
「何で楓が関係あるんだ、俺1人で行くのに」
「はあっ!?」
叫んだ楓に背中を向け、ひらりと手を振る。
「詳細はお袋に聞け。じゃ、お休み」
「おやすみって、ちょっと、えええ!?」
混乱しきった楓を無視して、疾は部屋に入って、鍵をかけた。