191 門出
「半人前呪術のツケは明日てめえで払え」
疾は瑠依と竜胆にそれだけ言ってその場を後にした。最後の力を振り絞り、自身の拠点へと辿り着く。
(次会った時には絶対に蹴倒す……)
壁にほぼ全体重を預けふらふらと廊下を進み、疾は心に誓う。昏倒寸前の体ではぶん殴るだけで精一杯だったが、疾の鬱憤を晴らすには全然足りない。いつか必ず心ゆくまでしばき倒すと誓い、疾は何より最優先で魔力補充を行ってから携帯端末を引っ張り出した。
「…………」
2週間経っていた。
(ほんとあの馬鹿……)
着信履歴とついでに位置情報探索履歴が山ほど表示された画面を見下ろしながら、疾は深々とため息をついた。これは追求がとても厄介になると察したが、今の疲弊した状態では誤魔化し切れない。ひとまず帰還と無事の連絡だけメールで入れて、疾はベッドに倒れ込んだ。
こんこんと眠り、目を覚ました時には丸一日経過していた。軋む体を軽く伸ばし、疾は起き上がる。覚悟を決めて端末を持ち上げると、図ったように電話がかかってきた。
「もしもし」
『何があった』
単刀直入に問いかけてくるのはいつも通りの父親だが、いつもと違いあちらはスピーカー通話中らしい。嫌な汗が背中を流れた。
「連絡していた通り。ちょっと異世界転移をしていたんだが、帰りに座標がずれた」
『一週間以上の時間座標のずれはそう起きない。原因は何だ』
「魔力不足」
嘘は言っていない。いないが、電話口の向こう側の空気が一気に硬化した。
『疾。前にも言ったぞ。魔力不足を甘く見るな。命に関わる』
「分かってる」
『ならどうして分かり切った無茶をした』
声が低く問い詰めてくる。疾は一つ息を吐き出す。
「同じ無茶でも、リスクの低い方をとった」
『魔力不足以上の無茶とは何だ』
「敵。魔力回復を待とうにもジリ貧になる可能性が高いと判断し、多少の座標軸の甘さは覚悟の上で跳んだ。位置座標を優先したんだよ」
敵より味方が厄介だったのと、位置座標を優先したもののズレて命懸けだったの以外は本当だ。瑠依の存在は匂わせずに状況を説明してみせた疾に、父親は束の間沈黙した。疾は手汗で滑りそうだった端末を握り直す。
(さあ、どう出る)
──やがて沈黙を破った父親の言葉は、疾の予想を超えるものではなかった。
『場合によっては、取り返しがつかなくなるぞ』
心配を多分に含ませたそれに、疾は小さく笑みを浮かべる。本当に、この父親は最初から今まで、徹底して疾への姿勢を変えない。それに、何度も救われたけれど。
「知ってる」
『疾』
声が揺らぐ。激昂の直前の気配を感じた疾は、けれど続いて聞こえてきた声の方に肌を泡立てた。
『疾? 貴方、本当に何があったの?』
柔らかに聞こえる母親の声だが、疾は騙されない。明らかに怒っているし、誤魔化されてくれる声じゃない。
「……今言った通りだよ。いつも通りの無茶をしただけだ」
『いつも通りの無茶で、一日以上寝込むほどの魔力不足を引き起こすほど、貴方の自己管理は甘かったかしら。私の認識を変える必要がある?』
「……」
もとより騙せるわけのない相手だ。疾は相手に聞こえないよう、慎重に深呼吸した。軽く目を閉じて、意図して思考を切り替える。
幼少期に絶対的な上下関係が刷り込まれたせいで、疾は無条件に母親へ苦手意識を抱えており、そのせいであらゆる虚勢が筒抜けになってしまう。だからこそ、疾は庇護され続けていた。
けれど。
(──ごめん)
もう、潮時だ。
「まさか」
軽やかに、笑って見せる。
「ちょっと面白いことがあったんだよ。首を突っ込んでたら、思いの外時間が経った。持てるだけの知識を土産に帰ったせいで魔力を想定より食われたがな。たまには無謀無茶もしてみるもんだ、なかなか楽しかった」
『……』
「ここ最近、予定通りに物事が進みすぎて飽きていたところでな。いい娯楽だった」
『……そう。それは良かったけれど、ほどほどにね?』
「ご冗談を」
ほんの少し、母親としての仮面を脱いだ「彼女」の言葉すら、突っぱねる。
「予想外を楽しまなきゃ人生なんか退屈で仕方ないだろ? ほどほどのスリルはもう飽きた」
心の奥底で謝る。これまで疾を取りこぼさないように、掬い上げるために、懸命に心を傾けてくれた両親への、これは手酷い裏切りだ。
『待って』
「ああ、安心してくれ。スリルに溺れて目的を失うまで馬鹿じゃない。奴らは潰す、その途中で道を見失うようなことはしない」
『待って、疾』
「けどまあ、ちょっと命をかけるくらいの冒険は楽しむだろうな」
『疾、待って、お願い』
『疾!』
両親の声が重なる。少しだけ笑って、疾は台本通りに言葉を繋いだ。
「つーわけで。いちいち保護者に許可とって冒険ごっこをするのはこれで終わりだ。つーか流石に位置情報探索を捩じ込むのはどうかと思うぜ、お袋。今後はブロックさせてもらうからな」
『疾っ!!』
この判断は、きっと遅すぎたくらいだろう。もっと早く──魔法士協会への敵対を決めた時か、せめてその後、冥官に絡め取られた時は決断しなければならなかったのを、ずるずると情に負けて引きずってきたのは疾の弱さ故。
『疾、お願いだから──』
「いつ傍受されるか分からない通話回線で、名前を連呼するなって。そのリスクを教えた張本人たちが何やってんだ」
分かっている。リスクを冒しても、二人の最大限を持って名を呼べる環境を作ってくれていた。疾が自分を見失わないよう、名に込められたものを手放さないよう、ずっと。
「下手に情報が漏れても作戦が漏れても困る。自分で首突っ込む予定外はともかく、背後から撃たれるのは勘弁だ」
『疾!』
父親が怒鳴る。初めて聞いたその強い声に、そっと目を細める。
(……本当に、ごめん)
彼らが必死で守り続けてくれたそれら全てを見失うつもりはない。けれど、自分でも手が届かないほど深いところまで、沈め込む。
「ああ、言うまでもないが──馬鹿な真似、するなよ? 流石に親に銃口向けたくは無いしな」
ここから先、何があっても助けに来てくれるな、引き止めてくれるなと。疾の進む道を潰そうとするなら敵とみなすと、酷い台詞を躊躇いなく読み上げる。
「じゃ、お達者で」
(ありがとう)
決して言葉にしてはならない、伝えなければならない言葉は、全て飲み込んだ。
『待っ──』
電話を、切る。そのまま端末を握りつぶし、疾はデスクトップのキーボードを叩いた。少しずつ作っていたプログラムを走らせ、すべての連絡手段を一斉遮断する。
「……はー……」
深いため息を漏らして、疾は椅子にもたれかかった。これで縁が切れたなどと自惚れるつもりはない。その気になれば、疾の個人情報を丸裸にするだけの技能を持つのが疾の母親だし、そもそも一方的に切れる縁でもない。
けれど──もう、これまでのように疾への干渉は出来ないだろう。二人の甘さに漬け込んだ自覚はあるが、あそこまで言われて動ける人たちではない。それだけの愛情を持って育てられてきたからこそ打てる、最低の一手。疾がここから先、魔法士協会の敵として、冥府の鬼狩りとして、本格的な命懸けの戦場に身を投じるには必要な一手だ。
「……馬鹿の不具合で死にかけました、なんて言うわけにいかねえしなぁ」
あえて茶化して、疾はゆっくりと立ち上がる。一番頼りにしてきた人を断ち切った分だけ、自分の管理もこれまで以上にきちんとする必要がある。魔力枯渇からは脱したが、若干胡散臭いものの優秀な担当医に一度見てもらっておいた方がいい。そう判断して、身支度を整えるべく歩き出した。