177 大迷惑
完全に嵌められた。
一から十まで冥官の掌の上だったと理解した時にはもう遅い。すでに疾の逃げ道は疾自身の選択が綺麗に潰してしまっている。おそらくそれもまた、冥官の差し金だろう。
一体、どこから冥官の掌の上だったのか──考えるだけ深みに嵌りそうな予感がした疾は、そこで思考を止めた。
「ああくそ……」
自室で悪態をついた疾は、深々と溜息をついて机から身を起こした。あのクソマズ劇薬が効いたらしく、疾の体調はかなり良い。ノワールと対峙する前の自己調整以上のコンディションだ。感謝する気は毛頭ない。
一方で、今回の一件に全霊を注ぎ込んだ結果、疾の手持ちは最低限度の護身用しか残っていない。何せ、堕ち神から歩く原発の連戦だ。命を守るだけでも魔道具を湯水のように使った上、罠を仕掛けるのにも相当利用した。おまけに保険で持っていた分まで最後の魔力暴走で一つ残らず砕け散ったので、手元不如意にも程がある。
(必要経費とはいえ、あの野郎ほんといい加減にしろよ……)
こちらの活動の邪魔はしないという口約が守られた試しがない。そう思ったところで、あの満面の笑みを思い出してしまい、疾は渋面で唸った。……これは少し引きずるかもしれない。
はあ、とまた溜息をついて、疾は視線を落とす。気を取り直す意味で片手間に作業をこなしていた手元を確認した。
高級な魔石を再確保するには費用と手間の面で少々時間がかかる。とりあえず安価な魔石でよく使う単純な魔道具を作成した後、研究の段階で砕けた魔石の欠片に目をつけて、子供騙しの小さなギミックを試作した。
結果、ごく単純な初級魔術──子供騙しのような魔道具が出来上がったが、これはこれで使い道を見出した疾は、どうせだからと量産のついでに魔力回路構築の同時並行作業の練習台にした。結果、あれこれと考え事──8割冥官への呪詛──に没頭している間に、気づけば山のようなクズ魔石の魔道具が出来上がっていた。
(最大同時作成数は10か……作成時間の短縮と同時作成の練習、どっちに力入れるかだな……)
この場に第三者がいれば確実にドン引きされるような事を考えながら、疾は一時気分転換にと立ち上がった。キッチンで手早くコーヒーを入れ、カフェオレにしてテーブルに着く。一口啜った途端に、置いていた端末が振動した。視線を落とすと、妹の番号だ。
「今雑談する暇はないから用件だけよこせ」
『うわっ、開口一番機嫌悪ぅ……』
引き気味の声が返ってきたが、疾は無言を返した。言外の圧を正確に感じ取った楓が、即座に本題に入る。
『なにやら不穏な動きをしている組織があるとかないとか、母さんからの伝言なんだけど』
「知ってる」
『だろうとは思うけど、対応が遅いからちょっと心配になったんだってさ』
心当たりのある疾は束の間思考を巡らせ、適当な返答を弾き出す。
「……ちょっと釣りを試してた、そろそろ潰すって伝えとけ」
『りょうかーい。後、父さんが、なんか日本の魔力線? が今後ちょっと変動? するかも? みたいな兆候があるとかなんとか。良く分かんないから、詳しいことは直接聞いて』
「分かった、こっちでも調べる」
これは少々気になる情報だ。魔力線──日本では地脈と呼ぶ──は、一定以上の規模に及ぶ魔術構築に必要なアクセスラインのようなものだ。その変動となれば魔術の構築に影響を及ぼすだけでなく、地脈から漏れ出る魔力を糧にする妖たちにも変化が出るかもしれない。となれば当然、鬼も増えやすくなる。
近々鬼狩り局でその辺りの情報が入っているのか確認することを脳内リストに加え、疾は端末に手を伸ばした。
「他は?」
『私のテストがピンチ』
「死ぬほどどうでもいいな、切るぞ」
『分かってたけど薄情……! ……が──で、……あれ?』
「──」
音声に、不自然なノイズが混ざった。
瞬時に意識のスイッチを切り替えた疾が、五感を研ぎ澄ませて状況を探りつつ、ひとまず端末への干渉を弾く魔術を構築しようとして──動きを止める。
「……………………」
据わり切った目で壁を睨みつけながら、疾は構築していた魔術に少し変更を加えて発動した。音声通話は直ぐに回復したが、不愉快なノイズは混ざったままだ。
『あ、繋がった……でもなんか変なんですけど! ねえ、にいさ──』
「……ぶちのめす」
『あ、ハイ』
悲鳴混じりに何やら喚いていた楓が、疾の心の声が漏れたのを聞いて、一瞬で静かになった。相変わらず機微に鋭い妹に、端的に指示する。
「呪詛だが、そっちに害はないはずだ。ただ解呪しないと、今後全ての連絡先に呪詛を広げることになる。そのまま待ってろ」
『それ普通にめちゃくちゃ害があるんですけど!』
全くもって、その通りである。
口元が小さく笑みのような形に歪むのを感じながら、疾は壁一面に広がった血文字を睨みつけつつ、吐き捨てる。
「時間制限付きらしいからな。速攻でどうにかしてやる」
『クンレン イツモノ』
そんな文字を無数に連ねた、毒のない呪術師の姿を脳裏に浮かべた疾は、とりあえず奴は地面に這いつくばらせる、と決めた。
思ったよりも解呪にややこしく煩雑な手順が必要だったおかげで、疾が全ての解呪を終えた頃には「いつもの」時間になっていた。待ち合わせ場所に現れ、いつも通りの能天気な顔を見せた大馬鹿野郎は、しかし疾の顔を見た瞬間、表情を凍り付かせる。
案の定といえば案の定なその反応を見て、疾はにこりと笑ってみせた。
「──呪った対象に面を見せるとは、良い覚悟だなぁ? 瑠依」
自身がしでかしたことに対して欠片の自覚もなかったらしい瑠依と、長生きの割に知識は不足していたらしい竜胆に、遠慮なく殺気を叩きつけながら、疾は有言実行で瑠依を蹴倒した。