120 堕ちた果て
「さてと、始める前に。疾」
「なん、だ……っ」
先程までと同様に呼ばれ、つい返事をしてしまった疾は、直ぐに失態に気付いた。だが、もう遅い。
(またかよ……!)
言霊による呪。魔術師達の間でも珍しくはない呪いは疾も対策済だし、仮に捕らえられても直ぐに抜け出せるよう訓練は積んでいる。『名』を縛るのは基本中の基本だが、名字か名前のみ名乗る──という魔術師の常識は、そのまま『名』の呪い防止にも繋がっていた。
だから、本来ならば、会話の中で名を呼ばれ応じても、呪としては成立しない。抜け道として存在する、会話に言霊を混ぜ込む手技も、疾の聞こえすぎるほど聞こえる耳には通用しない筈だ。
ところが、こと冥官相手において、その常識が一切通用しない。普段通りの「音」のまま、予兆無く呪に縛られてしまう。──今のように。
「そこで大人しくしていてくれ。これから説明するが、下手に動かれると大事故に繋がりかねないんだ」
これまで大概な目に合わせてきた冥官の警告に、息が詰まる。一体何をするつもりなのか、皆目見当が付かない。
「声も聞きつけられるから、悪いな。大体の返答は聞こえるから、安心しろ」
何をどう安心して良いのか全くもって分からない。疾は無言で冥官を睨んだが、既に背を向けた冥官は素知らぬ風情で弓を軽く持ち上げた。
「紅晴もそうだが、日本は比較的ヒトならざるものが身近に存在する地だ。ここから少し遠い市には、公認の人間と妖が共に暮らす地もあるほどだからな」
弦に指を掛けながら、冥官は続ける。
「均衡を保つ努力をしていても、何かしらの災害、人々の軋轢、その他にも様々な要素が絡み合い、均衡は崩される。そのしわ寄せは、土地に来る」
だからこそ、「土地」を守るべく、人では保てない均衡を支える役割を持つものが存在する。
「人の営みで崩れる均衡を維持するのが、土地神の役割。──ここで重要なのは、その土地神を務めるカミという存在の定義だ」
妖が妖である限り縛られる「特性」があるように、カミにも存在するための「条件」が存在する。土地に息づくあらゆる命を守るという、全能とも呼びうる力の対価は。
「──カミは、神を祀る人々の祈りが、力の源となる」
守護神であろうと、土地神であろうと。この世に顕現したカミは、ひとの祈りによって、存在を維持している。
「俺に言わせれば、随分な仕組みにしたものだと思うがな。人の思いの淀みにより均衡を崩す土地を管理する土地神が、人の祈りを糧にして力を振るうとは、存在矛盾もいいところだ」
さらりと神を──この世界の構成を詰りながら、冥官はふと顔を上げる。つられて視線を向けた疾は、目に映ったものを疑った。
「──その結果、こんな風に。在りようを歪めてしまうカミがいるのだから」
どろり、と。
黒く歪んだソレは、冥官の前に溶け落ちた。
(なんっだ、これ……!?)
ソレが内包する力は、確かに人智を超越する──神と呼ぶに差し支えないものだ。それでいて、その力はひどく淀み、歪み、瘴気を撒き散らしている。
「あらゆる神は、四魂で構成される」
リン、と鳴弦が響く。
その音が、迫り来る瘴気を全て浄化した。
「和魂、幸魂、奇魂、荒魂。人の喜怒哀楽に対応するこれら四つの魂は、均衡を保ちながら神の力を、魂を、器を構成する。時にはバランスが崩れ、災害という形で土地に顕現するが、その程度だ。街全体を犠牲にする事なく、再び均衡を取り戻す」
おぞましいソレを目の前にしても眉ひとつ動かさず、冥官は赤い瞳をソレに向けている。感情が聞き取れない声が、語り続ける。
「ところが、人の感情に左右されるそれは、時に行き着いてしまう事があるんだ。大体は荒魂が暴走する場合が多いな。──人の感情が行き着いた先が鬼であるように、神の魂が行き着いた先も、鬼だ」
──リン。
再び鳴弦が響き、瘴気を浄化する。
「土地神が堕ちるというのは、街ひとつ道連れにするのと同義だ。流石に、土地神を任ぜられるほどの力があるカミが、人の諍いごときで自我を失うほど柔くはない場合が多いが。困るのは、同祖神クラスだ。彼らは人の入れ替わりでたやすく忘れ去られ、力を失う」
(……なら、何故堕ちる?)
力を失ったカミは、そのまま消滅するのではないのか。疾はそう問いかけると、冥官は肩をすくめた。
「そうであってくれれば、俺もずいぶん楽なんだがな。──かつて人に崇められ、感謝され、祈りという形で与えられた力は、どうもカミにとって中毒に等しい作用を持つらしい。言葉にすると、そうだな。全能感と自尊心、虚栄心。その辺りを勝手に育んでしまうようだ」
(いやに人間臭いな)
「はは、それはそうさ。カミは人の祈りで構成されているんだから。そもそも、生まれながらの神の方が少ない。かなりの土地神は、元が妖だ。妖もまた、ヒトの心を持つ」
軽く笑いながら、冥官は鳴弦を繰り返す。瘴気がみるみるうちに縮小していった。
「故に、忘れ去られたカミは人を憎む。自分は祀り上げられるべき存在なのに、どうして打ち捨てられるのかと。心地の良い祈りに飢えて、次第に失われていく力に、薄れていく存在に恐怖し、我を失う。そうして、堕ちるんだ。……堕ちた後に力を得ると言うのが、また皮肉だが」
薄く笑う気配がして、冥官は弦をゆっくりと引く。弓手を持ち上げ、半身になり、ソレ──堕ち神に向けると、いつのまにか矢がつがえられていた。
「堕ち神は、瘴気を撒き散らし、全てのヒトを呪い、世界を歪める。だからこうして異界が溢れ出し、土地を汚す。そして──土地神の力を汚す」
引き絞られた弓の先、鏃を向けられた堕ち神が、怨嗟の呻きを吐き出した。ただそれだけで土地を瘴気に浸す呪いと化した声は、異界に呑まれて消える。
「異界側から堕ち神を狩る利点がこれだ。界の揺らぎを利用して、堕ち神の瘴気を現世に持ち込ませずに済む。堕ち神はまだ現世の存在だから、こちら側に攻撃を向けることは敵わないしな」
(……あんたにしか出来ないだろ、それ)
「うん、そうだな」
疾に、存在ごと呑み込まれかねない場を戦術に利用するような、知れ切った自滅願望はない。