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疾き波は岩をも割き  作者: 吾桜紫苑
6章 『鬼』と『冥府』
119/232

119 合わせ鏡の向こう側

 不愉快な沈黙が暫く続いた後。


「さて、そろそろ気分も落ち着いたか」


 のんびりとした声の主を、疾はぎっと睨み付ける。


「ふてぶてしい元凶もいたもんだな」

「異能を操るものは、それが何であれ他者の異能を拒絶する傾向にあるからなあ。疾の異能は特殊だし、尚更だ」

「……」

「俺の持つ力はそれでも、比較的相性が良い方だと思うんだが……疾の異能は癖が強いな」

「……あっそ」


 文句を言う気力も削がれ、疾は溜息をついた。どうあってもこの御仁は、もう人ではないのだと思い知らされる。理が違う存在と、真っ当な会話が続くと思う方が間違っているのだ。


「さて、行こうか」

「まだあるのか」

「肝心の鬼狩りに出ていないだろう」


 舌打ちを漏らし、疾は視線を前方に向ける。いつの間にか、『扉』はその姿を消していた。

 掌に視線を落とす。先程まではなかった、『扉』の鍵となる力が息づいているのが分かる。


(胸糞悪ぃ……)


 手遅れだとは思うが、身の内に潜む『力』はどこまで、疾の有り様を歪ませていくのだろう。こんな形で自分の歪さを思い知らされるのは、心底不愉快だ。

 ひとつ頭を振り、冥官の後を再び追うべく足を踏み出した疾は、次の瞬間、視界が切り替わり足を止めた。


「どこだここ」

「紅晴が1番良かったんだが、あの街では今、人鬼は出てもアレは出ない。近隣で発生したようだから、今日はこっちで仕事をするとしよう」


 そう言った冥官が、不意に疾に手を伸ばしてくる。反射的に振り払い、1歩下がった。


「随分と信頼がないな」

「むしろ何故信頼されていると思うのか、理解に苦しむんだが」


 これまでのやりとりで身の安全を実感する奴は、世界を渡り歩いても存在しないだろう。


「そうでもないはずなんだが。まあ、いい。とにかく、認識阻害の術をかけさせろ」

「それ位自分で出来る」

「今の疾が扱う魔術じゃあ、意味がないんだ」


 そう言って、冥官は疾に素早く術を施した。害は無さそうなので大人しくしていた疾は、その術式の意図を掴めず、眉を寄せた。


「精霊化……?」

「疾は本当に目が良いな」


 にこりと笑った冥官は、それ以上の説明をする事なく歩き出す。仕方なく後を追った疾は、周囲を警戒しながらも、自身に掛けられた術について考え込んだ。


(認識阻害を意図して、擬似的に精霊と同様の存在性を作り出す……。一般的な知覚の持ち主じゃねえってことか)


 五感から外れるのではなく、「そこに在る」という情報をずらすという手段は、対人間ではなく、妖異──その中でも霊的存在を意識していることになる。勿論、こうなった疾を認識できる「人間」など、指折りしか存在しないだろうが。


「目が良いついでに、一旦魔道具も外しておけ」

「……何のつもりだ」


 思考を遮られて投げ掛けられた指示に、疾はつい低い声で詰問した。仕事中に、疾にとって命綱に等しい魔道具を外せなど、冗談にもならない。

 だが、冥官は涼しい声音のまま繰り返した。


「魔道具を外せ。ここから先、全てをありのまま見なければ、履き違えてしまうからな」

「だが、」

「問題ないよ。ちゃんと視えるし、聞こえる筈だ」

「は……?」

「ここから先は、そういう領域だからな」


 にこりと微笑む冥官に、引き下がる気が無いのを察して、疾は渋々ピアスを取り外す。普段から念の為に持ち歩いているケースに、外したコンタクトを入れた。

 慎重に顔を上げた疾は、束の間、我が目を疑う。


(──え?)


 目の前に広がるのは、魔力光だけが漂う暗闇──ではなく、これまで通りの街並み。


 ──色彩の一切が、白と黒のみであることを除けば。


「な、見えるだろう?」


 唖然とする疾にそれだけ言って歩き出す冥官を、我に返った疾が早足で追う。


「魔術で構築された亜空間でもこうはならないぞ。なんだこれは?」

「一応、疾に与えた知識にもあるんだけどな。合わせ鏡の向こう側、という奴だ」

「……いつの間に」


 冥官の言葉で、疾は大方の状況を理解した。世界を裏張りする様に存在する『異界』は、それ故に現世と非常に似通っているという。だが、本来世界を構成する情報そのものとは異なる為に、似て非なるものであると。

 姿だけはそっくり写しながらも、色彩が存在しないのはそのせいだろう。その点は納得したが、一体いつ、自分がその世界に踏み行ったのか、全く分からない。


「慣れれば直ぐに分かるさ。この世界──鏡面世界とでも呼ぼうか。鏡面世界と現世うつしよに、異世界のような境界はない。ほんの少し水を向けるだけで、鏡面世界の構成要素は現世に現界する。そして、それらは現世にとって脅威でしかない──こんな風にな」


 無造作に引き抜かれた腰の刀が、傍らから伸び上がる黒い影を断ち切った。


「……っ」

「情報が欠如している分だけ、鏡面世界のモノは、現世の情報を取り込もうとする性質が強いからな。迷い込んだ奴なんて、良い餌だ」

「それが、神隠しの原理か」

「正解だ」


 紅晴のような境界が揺らいでいる土地以外で、強固な壁を有しているはずの異世界へと迷い込むパターンの神隠しは、滅多に発生しない。魔術のみが発展した閉鎖的な世界が、文明の発展した世界の情報を求めて召喚することは稀にあるが、それもやはり、境界が揺らいでいる土地で発生する確率が圧倒的に高い。

 だが、それでも日本の各所で神隠しの伝承が多数存在するのは──なるほど、鏡面世界に迷い込み、そのまま取り込まれているわけだ。生存は絶望的だろう。


「まあ、こればかりはどうしようもないからなあ。扉を封じれば良いってものではないし、世界そのものを破棄するわけにもいかない」

「陰陽の理論か」

「ご名答。影のない光は存在しないからな」


 肩をすくめて、冥官は疾に視線を落とす。薄く笑うその瞳は、疾が魔道具を外してからずっと、赤く輝いている。


「通常、現世の人間が迷い込んでも、この世界の輪郭は認識できない。けど、疾の『目』は、今はっきりとこの世界を映し出しているだろう?」

「ああ」

「だからこそ、認識阻害を掛けておかないと、完全に呑み込まれかねない」

「シュレディンガーかよ。……あんたが平気な理由は」

「俺はほら、ある意味どの世界にも存在しえないから」


 酷く複雑な背景をあっさりと語り、冥官は片手を上げて歩みを制した。言葉の意味に怖気を覚えていた疾は、直ぐに立ち止まる。


「だから、ここを通る1番の理由は、誰も居ないが故の近道というやつだ」

「おい」

「これから狩るモノを考えれば、人目も相手の目も避けた方が確実なんだよ。何しろ無駄に賢しいからな」


 そう言いながら、冥官は刀を腰の鞘に戻し、左手をついと掲げた。淡い光が伸び、弓を形作る。


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