118 門番
白い世界の中、2人分の足音だけが響く。
歩き出してから一言も喋らない冥官の後を追いながら、疾は軽く喉元の傷に触れた。切り傷は浅いが、未だに血が滲んでいる。
「傷は治しておけ」
「あ?」
ようやく口を開いた冥官の言葉に、疾は反射的に眉を寄せる。振り返ることなく、冥官が続けた。
「血は流していない方が都合が良い。治しておけ」
意図は分からないが、ひとまず治癒魔術で傷を癒す。
「どこまで行く気だ」
「川の向こうまで行ってみるか?」
「……」
「冗談だよ」
ふっと吐息を漏らして、冥官は軽く手を掲げた。制止と受けとって足を止めた疾は、目の前に現れたそれに瞠目する。
見上げても、視界を遮るそれの境界は見えない。視界を覆い尽くすような、黒檀の扉。壮麗さも華美さもないが、蔦が這うように施された装飾は、間違いなく芸術に類するもので。意匠もつくりも「美しい」と表現するのに何ら支障のない、その壮大な扉に対して。
──疾は、いいようのない拒否感を覚えた。
「先にこちらを済ませておこう。今はもう、これが何だか分かるだろう?」
「……これが、『扉』か」
「正解」
薄く笑みを浮かべ、冥官は疾を振り返る。再び赤の瞳に見つめられ、疾は自然、身体が強張った。
「この扉が内から開かれる時、現は死者の軍勢に埋め尽くされる。だからここには、門番が必要となる」
「その門番が、あんただと」
「俺と、疾だよ」
「……っ、生者に任せて良い仕事じゃないだろう……!」
その、役目は。血に塗れる戦いを繰り返す生者が、担っていい筈はない。血の穢れは、死を招くのだから。
「鬼狩りなら、問題ないさ。言っただろう? 魂を刈り、扉が開くのを妨げるものだと」
「ちが──」
「違わないんだよ、疾」
反論は、喉の奥に絡んで出てこない。言い返さなければと思うのに、言葉は頭の中にあるのに、紡ぐことが出来なかった。
(言霊……!)
「扉には2つの役割がある。1つは、内から死者の軍勢が現世に下りてくるのを妨げる事。もう1つは、行き着いた魂を回収する事」
冥官が扉に歩み寄り、閂に触れる。軽く撫でるようにしながら、言葉を続ける。
「本来、生けとし生けるものは川を渡り、冥王の裁定を受け、輪廻に還るはずなんだ。だが、この世はどういうわけか、その循環から外れたものを生み出す。あるべき道から外れ、彷徨ってしまう魂は少なくない」
所謂幽霊も、一応それに分類される。ただし彼らは道を外れたというより、道に迷っただけなのだが、迷い続ける内に道を外れるものも少なくない。
「そういう魂の殆どは、死神が回収する。あいつらが導いた魂は、少しばかり裁定は厳しくなるが、いずれ転生の輪に戻れる。だからこそ、死神は、過剰とも言えるほど細かい規定を組み上げ、無情に職務を遂行する。その先にあるものを、分かっているからだ」
扉から離れ、冥官は再び疾に向き直る。薄く笑うその表情には、何の感情も乗っていない。
(くそ……っ)
未だ、言葉を発せない疾に構わず、冥官は続ける。
「器なき魂は彷徨う内に、その形を留めなくなる。そのまま消滅してしまう魂が殆どだな。幽霊が実在しながらも、この世に溢れかえらない理由がそれだ。極端な話、生者がやたらと怯えて退治しようとしている幽霊は、放っておいたら勝手に消える」
軽く肩をすくめ、それでも冥官は笑みの形を作ったまま、続けた。
「けれど、『力』を操るものが彷徨う場合は、話が違う。人々の営みの中でどうしても生まれてしまう瘴気に取り込まれ、あるいは生気に触れすぎて、形を歪ませる。多少の歪みであれば、冥府で過ごす内にいくらでも修正が効くんだが、行き着けば「鬼」となり、取り返しが付かない」
すいと腕を伸ばした冥官は、神力を操り、弓を喚び出す。
「行き着いた魂は、鬼狩りが刈り取る。それすなわち、魂の消滅だ。堕ちた魂は鬼狩りにしか掬えないが、救済は存在しない。ただ、消えて終わるのみ」
指がしなやかに弦に絡み、緩く引く。僅かな張力を得た弦に神力を絡ませ、指が離れた。
鳴弦。
退魔の儀式で最も多用されるそれは、冥官の手にかかれば異なるものとなる。
「では問題だ。何故、行き着いた魂は消されなければならないのか?」
その言霊で、疾の喉を塞いでいた見えない力は、幻のように掻き消えた。大きく息を吸い込んでから、疾は吐き捨てるように答える。
「……屍鬼の糧となるから」
「正解。糧が増えれば屍鬼は求める。そして、糧はそのまま、道になる。扉が、緩むんだ」
鳴弦が繰り返される中、冥官はうっそりと目を細めて扉を見上げた。しめ縄のように扉を縛る力が、染み入るようにして消える。
「だから門番は、こうして定期的に門を訪れ、縛り上げる。間違っても扉が開かないように……そして」
すうと笑みを浮かべて、冥官は疾を睥睨した。
「──鬼狩りでも狩れぬ魂を、扉の向こうに封じる為に」
「それは」
「解決になっていない? そうだな。だが、この扉は古来より、そういう役割なんだ」
だからと繋げて、冥官は今度こそにこりと笑って告げる。
「疾にも、頼むな」
「ぐっ」
喉に熱が走る。咄嗟に喉に触れるも、既に刻まれた術式への干渉は妨げられない。
「流石に、全権を渡すわけにはいかないな。扉を通すべき魂に遭遇した時だけ扉を開ける権限と、封に力を注ぐ権限を与えておこう」
「……!」
疾の脳裏を奔るのは、『扉』の管理の為に必要な知識。継承されたそれらは、忌むべき太古の闇そのもの。
(この……!)
「諦めろ」
疾の心を読むような言葉に、顔を上げる。薄く笑む冥官の手が、すいと疾を指差した。
「疾が『人』である限り。俺に抗うことは無理だ」
「……っ。この、人外が……!」
既に熱は馴染み、苦痛は消え去っていた。それを自覚しながらも、疾は吐き捨てる。一瞬身体中に過ぎる不快な感情には、気付かない振りをした。──自分が人でなくなっていくような、馴染みの感触。
それを否定する最たる存在が、こんな無茶ばかりを押しつけてくる、人ならざるものであるなど。──不愉快極まりない。
全てを認めたくなくて、疾は悪態を吐き出した。
「そうだな」
それでも軽く微笑んだままの冥官を睨み据えて、疾は──了承の礼を、取った。