11 警告
そうこうしている間に食事の時間が近付いてきたため、楓が母親と共にキッチンに入る。
「今日は何?」
「肉じゃがとコロッケよ」
「……じゃがいも買いすぎたんだ?」
「え、いえ、そんなことはないのだけれど」
そんなやり取りをして行く2人に苦笑し、疾は鞄から借りてきた本を取り出して読み始めた。波瀬家の家事は当番制で、疾は今日は風呂掃除とゴミ出しだ。まだ着手するには少し早い。
「……C言語か。また古い物を読んでいるな」
「うわっ、びっくりした……。お帰り、父さん」
「ただいま」
突然後ろから声をかけられて、疾は驚いて顔を上げる。スーツ姿の父親は疾の挨拶に答え、キッチンに顔を出しに行った。母親の嬉しそうな声と妹の驚いた声が聞こえてくる。疾はそれを聞きながら、ぼそりと呟いた。
「……父さん、気配なさすぎ」
無口でいるのも原因の1つだろうが、気を抜くと異様な程気配のない父親には、疾も楓もしょっちゅう不意打ちを食らっていた。
リビングに戻ってきた父親は、読書に戻っていた疾に、珍しく話しかけてくる。
「最近、どうだ」
疾から話しかけるならまだしも、父親から話しかけられるのは非常に珍しい。面食らいながらも、疾は思考を巡らせた。
「勉強は母さんの無茶ぶり以外は全く困ってないし、人間関係はおおむね良好。父さんが持ってくるビジネスパーティはバカンスまで待ってくれると助かるけど、無理なら楓と出る。いつもの困った連中については、警察沙汰までなったものはなし」
「…………」
(あ、違ったか)
黙り込んだ時の雰囲気を読み取り、疾は首を傾げた。ここまで網羅しても取りこぼしたものがあるとすると──
「……あ」
「どうした」
直ぐに反応した父親の様子をみるに、疾の仮説はあながち間違いではないらしい。一度キッチンの方向を伺い、まだ料理が出来る様子がないのを確認してから、疾は父親に向き直った。
「いや……最近、ちょっと妙な連中が多いんだ」
「妙、か」
「ああ。……上手く言えないけど、今までの奴らとは、ちょっと違う感じがする」
「……」
父親が険しい表情を浮かべる。思った以上に深刻に受けとられ、疾は瞬く。
「父さん?」
「……今の所、実害はないのか」
「ない、んだろうな。人目に付くところに出れば引き下がるし、警察に駆け込むまでもない。ただ、視線というか……なんだろう、あれ」
口籠もって、父親から視線を外す。続ける言葉が、通常であれば滑稽、あるいは年相応の病気と片付けられてしまうだろうという自覚はあった。
「なんか……日本にいた時もたまに感じたけど。何か、違う」
「違う」
「えーと……笑わないで欲しいんだけど、こう……普通に街歩く人達と、別の生き物というか、別の存在……みたいな」
疾には、幼い頃から奇妙な直感が働く時があった。嫌な気がして回避した結果、その場で不可解な事故や事件が起こっていた、などという経験が、フランスでも、日本での朧気な記憶の中でも、確かに存在していた。
その中でも、特に異様で異質な存在の気配を、肌で感じる気がしたのだ。以前よりも更に強い予感に、自然と疾の言葉選びが剣呑なものになってしまう。
そして、──空気が強張った。
雰囲気の変わった父親に、慌てて疾は言葉を添える。
「ごめん、気にしすぎかもしれない。ちょっと神経質になっているだけっていう可能性も」
「いや」
断定する語調に、疾は続く言葉を呑み込んだ。どこかを睨むような眼差しで、父親は疾に告げる。
「その直感は、信じて良い。拙いと思ったら、なりふり構わず逃げろ。下手に護身術を使おうとするな」
「……何か、あるんだな?」
もはや、疾の問いかけは確認だ。それほどに、父親の雰囲気はただならぬものだった。
容姿と、重役である父親のせいか、幼い頃から厄介なものにつけ回される疾は、楓と共に、母親から一通りの護身術を手ほどきされている。系統立てて教わった武術を、特に運動神経の良い疾はすっかり使いこなしており、喧嘩慣れしたチンピラ程度なら複数人相手でも余裕で立ち回れる程だ。
にも関わらず、それを使わず逃げろという「異常さ」に、自然と疾の表情も引き締まる。
疾の視線を受けて、父親は少し迷いながらも、きっぱりと告げる。
「詳しくは話せない。だが、疾が感じた通り、常識は通用しない。全ての良識常識を捨てて、自分の身を守る事だけを考えろ。例え疾の彼女を見捨ててでも、だ」
父親の言葉に、疾は思わず声を上げた。
「父さん、それは流石に……」
「そんなことを言える相手じゃない。疾はまだ子供だ」
「う……」
「確かに俺達は、身を守る術を授けた。だが、それだけで何からも身を守れるわけじゃない。最も大事なのは、適切な状況判断だ」
「それは……そうだけど」
護身術を教わる、1番始めに言われた事だ。これはあくまで手段の1つなのだから、縋るなと。相手を怯ませて逃げる隙を得ればそれで十分で、倒す事が目的ではないと。
「大抵の大人には勝てるのに」
「その例外だからこそ、疾が「妙だ」と感じている」
「それは……そう、かもな」
自分の力不足を認めるのは、何となく面白くない。だが、そんな疾の子供っぽい感情に流されてくれる父親ではない。
「だから、疾に出来る最善は、彼女をおいてでも逃げ切って、直ぐに助けを求めることだ。2人捕まって発見が遅くなるより、1人が逃げて情報を得られた方が、俺達も動きやすい」
「……」
「それが出来ないなら、今後単独行動は認めない」
「っ……わか、った」
逡巡を浮かべながらも頷いた疾に、父親もそれ以上は何も言わなかった。疾はふと思いだして、確認を取る。
「あの、父さん。俺、今週末、アリスと約束してるんだけど」
「デートか」
「……うん、まあ」
てらいもなく尋ねられて、ほんの少し面映ゆい表情で疾が頷く。からかうどころかにこりともせず、父親は続けた。
「行くのは構わないが、送り迎えは俺がする」
「え」
疾が驚いたのは、父親の多忙を知っているからだ。だから母親に送迎を頼んだのだが、父親はどうやら本気のようだ。
「……そんなに、やばいのか?」
「どうにも気になる情報が入った」
「それは、俺が知らない方が良いこと?」
「ああ」
はっきり言われて、少しだけ疾は反論しかかったものの、直ぐに口を閉じて、頷く。
「分かった。アリスにも、警戒が必要なのは伝えておく」
「そうだな」
丁度そのタイミングで、キッチンから2人分の足音が聞こえた。疾と父親は頷き合い、示し合わせたように会話を終わらせる。
「お待たせー。母さんのじゃがいも爆買い消費するよー」
「もう……楓、言わなくてもいいでしょう?」
楽しそうな笑顔の楓と、やや恥ずかしそうながらも楽しそうな母親に、男2人は肩をすくめて食事に取りかかった。
少しずれている両親に見守られ、小生意気な妹と軽口を叩き合って。学校での愚痴も外では漏らせない本音も、好き放題言い合って、議論して。
そんな、どこにでもありそうな家庭風景を、この時の疾は当然のものとして享受していた。
それが、どれ程貴重で、脆いものだったのか。
背中合わせに脅威が在りながら平和に暮らせた背景で、何が起こっていたのか。どれ程、自分達が守られ、知らされずにいたのか。
疾は何も、知らなかった。




