103 天才
その後。
母親たっての希望で、父親一人が先に場を離れた。
「ここから先、俺が教えることは殆どない。だが互いに情報共有や研鑽し合うことは出来る。いつでも連絡しろ」
そう、一人の魔術師として認める言葉を残されたことを喜ぶ間もなく、疾は微笑む母親と静かに対峙していた。
(……これは)
背筋を、ひやりとした汗が伝う。笑みを、眼差しを見てすぐに悟る。
「疾」
「……何だよ」
──この人は、今、自分の母親ではない。
「なんだか、こうして話すのは久しぶりかしら」
「……そうだな」
「今は会話にクッションを置く必要は無いわ。時間の無駄です」
「……」
──そして自分も、今、この人の息子ではない。
スイッチが切り替わるように、疾の口調が変化する。
「何か確認したいことでもあるのか」
「貴方が、お父さんの前では問いかけに答えたくないからよ」
「答える言葉がなかった」
「それは貴方の中に答えがないの」
「答えはあるが、言葉にする価値がないんだ」
感情の切り離された言葉が、羅列される。無感情な眼差しと、無感情な微笑みが、交錯する。
こうした会話は、彼らの間で時折行われる。徒人とは解離した──かけ離れた思考回路を、母から引き継いだ疾の為に。
「お父さんの課題は簡単にこなせるのに」
「課題と探求は別物だ」
「本当にそう思う?」
「与えられたものと求めるもの、違いは存在する」
「どちらも与えられたものでしょうに」
「……」
つくづく、思い知らされる。
(才人の、基準か……)
誰に何と言われようと、疾にとっての「天才」は、目の前にいるこの女性だ。
自分は、そうではない。限りなく近づけても、辿り着くことは出来ない。
どこまでも、疾は、凡人だ。
「──違うわ」
「……、いきなり思考を読むな」
「ほとんどの人間の思考なんて、読み取れてしかるべきよ」
「……」
何の迷いも無く言いきられた言葉に、疾は息を詰める。
けれど、続く言葉に驚いた。
「読み取れないのは、心だわ」
「感情の方が、構造が単純な分、読みやすいはずだが」
「違う。単純なものは、どこまでも止まらない。だから、どこまで行くのか読めない。構造なんて、形を保てる範囲でしか構築できないでしょう?」
「……?」
何かを示す言葉に、引っかかりを覚えた。疾が視線を向けた先、女性が小さく首を傾げる。綺麗な、作られた仕草だ。
「ねえ、疾。違うのよ」
話題を引き戻し、疾に微笑みかける女性は、ただただ連ねる。
「貴方は、私達は、違うの。見えているものが、思考が、流れている時間が違う。──この世界は、貴方が思う以上に盲目で、貴方が思う以上にゆっくりとしか、動かないの」
「……」
「異能の有無など関係無く、見えている景色が、違うのよ」
だから、と。女性は続けた。
「だからね、疾。そんなゆっくりとした時間の中、どれだけ意味もなく渦巻く感情が、どんな風に暴走すると思う?」
「どういう──」
「人はね、時間が在ればあるほど、余計な事を考えるの」
「……」
「私達も、例外ではないわ。だって、暇でしょう?」
──暇。
この女性は、そう言ったか。
魔術師に追われ、魔法士と敵対し、鬼狩りとしての能力を求められる疾の現状を、暇と。
「俺は……」
時間が足りない、と思っていた。
欲しい力を手に入れるための、戦う準備をするための時間が、足りないと。
「だから、焦っていたの?」
くすり、と女性が笑う。
「謙虚なものね」
「っ、何を」
他人事の様に、と食ってかかりそうになった疾は──
「えい」
「…………」
──……唐突に人差し指を伸ばして眉間を押さえてきたいい年の女性に、いっぺんで気勢を削がれた。
「……何してんだ、お袋」
「え? なんだか、疾が怖い顔をしているから」
「…………」
深く溜息をついた疾に構わず、母親は続けて頬をつまんできた。
「おい」
「うーん……疾は真面目ね」
「対外的な評価は、その真逆なんだがな」
「あら、そんな筈はないわ」
「どういう……というか、いい加減手離せ」
緊張感の名残すらなく、疾は会話の間も頬を弄り続けていた手をぺいっと引き剥がした。やや不満げに手を引っ込めた母親は、軽く首を傾げる。結い上げてもなお腰まで伸びる髪が、さらりと靡いた。




