【紫音編】第一話
―――夢を見た。
夢を夢だと認識する感覚は、何とも言えない奇妙さを伴う。
『其処に居る』のに『此処に居ない』。
俺の身体の真上には、馬鹿みたいに青い青い空が広がっていて、俺はただ地平線を歩き続けていた。
何処までも何処までも続く地表。終わりの見えない不安は、同時に、ああこれが人生という道程なのかもしれないと、教えられずとも直感した。
平坦な平坦な道程。代わり映えの無い景色。きっと、俺以外の誰かにも、同じようにレールが敷かれているのだろう。
―――それを当たり前のように享受するようになったのはいつからだろう。非常識を笑うようになったのはいつからだろう。
夢の中の空には太陽があるのに、俺は『暗い』と感じていた。
闇だ、闇だ、深い深い、昏過ぎる闇だ。
誰かが何かを叫んでいる。その声の方へ、手を、伸ばそうとして――――
「紫音ーーーーー!!」
ジリジリとけたたましい目覚ましの音と共に、母さんの大きな声がリビングの方から聞こえてくる。
俺は瞬時に現の世界に引き戻された。何か、夢を見ていた筈だ。それなのに、記憶を辿ろうとしても、
既にその糸は切れてしまっている。
「起きろバカ紫音!!」
「ぐへっ!?」
目が覚めたと思うや否や、弟の未音が、布団の上から体当たりしてきた。
周りから見れば、微笑ましい兄弟のやりとりに見えるかもしれないけど、未音は今年小学五年生になる。そろそろ、年齢と体格を考えて欲しい。
「った…………おい未音、それが起きたばかりの兄貴にすることかよ?」
「オレより遅く起きる兄貴が全面的に悪い」
そういって、更にふざけてスライディングを仕掛けてきた未音を、危ういところで避けた。標的を失った弾丸となった未音の、少しだけ色素の薄い焦げ茶の髪が、パラリと揺れる。
俺は俺で、ハンガーに掛かっている無個性な学生服を取ると、それをバタバタと忙しなく身に纏っていく。
悪いが、これ以上未音に構っていたら遅刻する。
超特急で支度をして、二人して慌ただしく音を立てながらリビングに降りると、すました顔をした姉が、朝食のカップスープを啜っていた。
「朝から喧しいわよ、馬鹿餓鬼達」
ツンとすました姉の名は琴音。形の良い、キッカリしたお下げをして、紺色のセーラー服姿だ。
俺より一つ上の高校一年生だが、血が繋がってるとは思えない程頭が良く、猛勉強して勝ち取った中高一貫の難関女子高に通っている。所謂、お嬢様学校ってやつ。
俺は朝からため息を吐きながら、用意された食パンと卵をスープで一気に流し込んだ。
「あーもー!!兄貴のせいでまた遅刻なんだけど!!」
通学用の自転車を準備していた俺に、だいぶ年季が入ってきた黒いランドセルをゆさゆさ揺らしながら
話しかけてきたのは未音だった。
俺が小学生だった頃と違って、カラフルなランドセルも出てきたというのに、律儀に地味な黒を選ぶ、変なところで真面目な奴だ。
未音も、兄の俺と血が繋がってるのが疑わしくなるほど、こう言っちゃあれだがかなり頭の良い奴で、私立の小学校に通っている。
だから、俺が小学生の時とは違い、今の格好も立派な制服姿だ。
「なら先に行けば良かっただろ?」
「えー、でも、歩くの面倒くさいし-、ねえ、兄貴ー…………」
そう言って、わざとらしく上目遣いで見上げてくる。…………あーもう。
「学校前の桜の樹の下までだからな」
「やったー! 兄貴大好き愛してる!」
「きもい」
此処で拒否したら駄々をこねて面倒くさい。だからだ。決して弟が可愛いからとかじゃ無い。断じて。
ふんふんと鼻歌なんか歌いだす、調子の良い未音を乗せたまま。
学校前の、桜の樹の陰でブレーキを掛けて止まる。
自転車の二人乗りは学校で禁止されているから、此処までが校門前の教師に見つからないギリギリラインだ。
「ありがと兄貴、じゃあ、行ってくる」
「おー行ってこい」
そう言って、いつもの様に軽く手を振った。
葉桜へと近づく桜の枝が、ユラユラと揺れていた。