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あなたとわたし

 読者諸氏に問う。「幸せな記憶は」と、問われたらなんと答えるだろうか。

僭越ながら、私の答えをエッセイにしようと思う。そのためにまず高校三年生の時にある女性と付き合うまでの顛末を語らせていただきたい。

 彼女との出会いは高校一年生の頃まで遡る。通学の電車が同じだったこともあって私は彼女の顔を知っていた。だがそれ以上の接点はないまま二年の月日が流れることになる。高校三年生の頃は友達と日がな一日バスケットに興じていた。三限が終わると早弁してお昼休みに一時間、放課後にまた三時間ほどよくコートを跳ね回ったもので今にして思えばローファーでよくやったものである。

 そんなお昼休みのバスケットを私の女友達と一緒に彼女が眺めていた。そして偶然、後ろにいた彼女のほうへボールが勢いよく飛んで行ってしまったのだ。まるで小説のようだが事実である。

 ボールを反射的に追い、私が初めて彼女にした行動は謝罪すると同時にした土下座であった。これも小説のようだが事実で、強度の運動でハイになっていたのだろうと思う。幸いボールは当たっておらず、会話もそこそこにすぐ戻った。

 しかし共通の友人があると知ってコンタクトを取りデートを重ね、紆余曲折の後ついに告白にこぎつけたのである。すると彼女は「他の人からも告白されているため、返事を待ってほしい」と言うのだ。無論そこで引いたのでは男が廃る。私はその場で付き合うのか付き合わないのか決めてほしいと決断を迫った。人生で一番緊張した瞬間を乗り越えて、ようやく彼女と付き合うことになる。

 想像してほしい。白磁のように透き通った肌、少し硬質な黒髪を短く切り揃え、儚げな目が持つ大きな瞳が自然と彼女に視線を向けさせる。そして整った鼻と柳眉りゅうびが美しいフェイスラインに均整の美を与えているのだ。そんな女性とその彼として、逢瀬を重ねることができるようになったのである。

 さぞ当時の私は浮かれていたことだろうと思う。もちろん「女心」という難しいものと初めてまともに向き合いって驚いたりもしたが、それでも幸せだった。

 そんな緊張と興奮の連続を過ぎて一年が経った頃だろうか。ここからが私にとっての一番幸せな記憶である。

 良く晴れた日の昼下がりに自宅で一緒に昼寝をした後だったか。大学で保育の講義を取っていた彼女が「童話の読み聞かせで暗記が必要だから、ちゃんとできるか聴いていてほしい」と言うのだ。私は寝ころんだまま、ボーっとする頭で彼女の朗読する『おおきなかぶ』に耳を傾ける。

 朗読が始まると、まるで安らぎが具現化した世界にたった二人でいるような感覚を得た。温かくて柔らかい不思議な空間にただ彼女の声だけが響いて、この部屋の時間が止まってしまうのではないかという錯覚すら覚えたものだ。

「…ひっぱって、うんとこしょ、どっこいしょ。それでも、かぶは ぬけません」彼女の声だけが時間を進める。少しだけ舌足らずな響き、優しい声音で本当に読み聞かせをしているような、ゆっくりと紡がれる言葉と共に。

 記憶は時間の経過で琥珀に染まり遠くなるものだ、古い写真が時と共に色褪せるように。だがあの瞬間の記憶だけは、私に人が持つ肌のぬくもりと柔らかさを、ありありと想起させてくれる。そして何よりあの空間にあった一体感を思い出すのだ。

 さて最初の問に戻りたい、幸せな記憶とは何か。そして私にとっての答えは主客の合一なのである。それは”あなた”と”わたし”が一体化するということだ。

 その論の前提を創作に置き換えてみよう。小説を書くには私という主体と記述される客体という二つの要素抜きには成立しない。絵なども同様である。描く私と描かれるカンバスが必要だ。

 またこれは受動的な言いにも成立するだろう。音楽を鑑賞する様子を思い浮かべてほしい。オーケストラでもライブハウスのバンドでも、演奏する主体と聴く私という客体が存在する。当然これは言葉遊びのようなもので聴く私を主体とし、私に演奏する相手を客体とする表現も可能だろう。ともあれ哲学的に存在そのものへの疑問を持たなければ、世界には必ず主客が存在すると言える。

 あなたとわたし、この境界線が消失するところに私は幸せを感じる。記憶の糸をたどるなら最初はあの日の部屋にあった。私人としてはともかく、残念ながら文人としての私はまだその域に達していない。しかし想いを余すことなく表現できて読者諸氏に私の感情すら想起させるようなものが書けるようになれば、それを幸せだと感じるだろう。そしてそれは絵や音楽、手段を問わず表現し表現される全ての人に同じことが言えるのではないかと考えている。好きな作家の本を時間も忘れて読みふける経験や、コンサートホールやライブ会場での一体感を感じたことがある人ならば共感を得られることと思う。当然、家族や恋人と過ごした時間でもよい。

 承認欲求や芸術への欲求は主客合一の境地へ達する立脚点なのだろう。くゆらす紫煙や美酒にも程度が低いながら感ぜられるのを見るに懐は広いようである。日々は都会の汚れた空気と雑事に忙殺され、誰かを愛そうとか芸術をしようという気持ちを遠ざけてしまう。しかし、人生の真なるところは塵埃じんあいを払った先にあるということを忘れずに生きたいものである。

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