問題編(3)
私の故郷の村に、名家の長、橘山刑部という男がおり、その周辺一帯を随分手堅く治めていらっしゃいました。その方は非常に端正な顔立ちをしていらっしゃって、女中などにも大変な人気があり、女など手に余るほど寄ってたかったそうなのですが、彼はどうにも誠実で、当時の殿の伯母君妙松院の養女にあたる女性を賜り受け、ご結婚なさり、その女性を大層ご寵愛なさったらしいのです。その女性は非常に美しい方だったらしく、刑部様に寄っていた女中たちや交友のあった女性たちも羨むほどだったそうですが、お二人はまるで恋愛によって結びついたかのように仲睦まじく、見合いに際して出会ったとは到底思えないほどのご様子で、次第に奥様もお屋敷の方々とは馴染んでいくようになったようです。
それから数年後のことですが、刑部様とその女性の間に子どもが生まれました。名前は市丸様とおっしゃいまして、お二人はなかなか子宝に恵まれず気苦労を重ねておりましたから、市丸様のご出産には刑部様もさめざめと感涙なさったほどです。しかし不幸なことに、奥様は出産の半年後に突然体調を崩され、その日のうちに亡くなられてしまったのでした。
刑部様は殊に悲嘆にくれてしまい、もう立ち直ることはないのではないかと思うほどに憔悴の一途を辿りました。いえ、話しかければ返事はしますし、女中たちに指示も出すのです。村の政務もこなしますし、食事もとらないわけではありません。しかし、目に見えて異変があるのは誰の目より明らかでありました。あれほど端正であった顔立ちも、今や痛々しく淡々としており、笑顔の兆しがまったくといいほど見えなかったのです。ある女中が蝋燭を持って夜中に見回っておりますと、刑部様は部屋でおひとり、暗い中でいつまでも泣き続けていることもあったとか。それほどまでに奥様の死は彼に痛烈な喪失感を与え、彼の輝かしい生活に暗い影を落とす一因になってしまったのでした。
ところが一年後、ひとつ事件が起きるのです。
当時お屋敷には二十人ほどの女中がおり、その中でとりわけ美しい者が二人おりました。それが、野沢と小梅でした。二人とも家族を早々に亡くし、身寄りがなく彷徨っていたのを、半年ほど前、刑部様に拾われたのです。二人はその美しい容姿もそうですが、佇まいや雰囲気、そういった心地がどこか魅力的な二人であり、また仕事の方も非常に真面目でしたから、刑部様の身のお世話をなさるお役目を頂戴するほどでした。そして、彼女たち二人はとても仲の良い親友同士でもありました。他の女中たちと合わせて二十人で、様々な雑事をこなしておりました。
刑部様は相も変わらず奥様の死から立ち直る様子はなく、夜はただ奥様のお名前をしくしくとお呼びになるばかり。そうした涼しい夜のこと、刑部様は政務のために家老のお宅にお邪魔して、その延長に晩酌をご馳走になってしまい、お屋敷の部屋にお戻りになった後も、酔いが覚めないままでいらっしゃいました。それを見兼ねた女中の野沢は、水を一杯入れ、刑部様のお部屋に参上したのです。部屋は月明りが窓から入り込み、部屋はほの暗さと淡い青が混じり合ったような色合いをしていました。刑部様は布団に横になっており、野沢はその傍に寄り、水を渡しました。
「刑部様、お水です」
「ありがとう」
刑部様は体を起こされ、水をお飲みになりました。
この時刑部様の瞳には、月明かりを背にした野沢の表情が、暗がりになっていて、彼女の艶めかしい黒髪がたいへん際立って美しく映りました。おそらくこう考えられたのだと思います。ああ、死んだあいつもこんな風に……そこで一つ、間違いが起こってしまいます。刑部様の誠実な御心を乱すには、あまりにも条件が揃いすぎたのです。決して亡くなった奥様と野沢は瓜二つであったわけではありません。雰囲気も違っていました。しかし、混濁する酩酊の中の意識、混乱から未だに立ち直らずに消沈した悲しみの意識、そうしたものたちが刑部様の視力を一つ鈍らせてしまったのでしょう。刑部様は水の入った椀を投げるようにしながら、野沢を布団に連れ込みました。
それからというもの、刑部様はどことなく微笑むようになり、日々の生活に少しずつ色が戻りはじめました。その原因は周囲の人間にはしばらくわからなかったものの、夜な夜な女中の野沢が一人、刑部様のお部屋に向かっていることが噂になると、なるほど二人は恋に落ちて、ようやく奥様の悲嘆から立ち直られたと見える。野沢は刑部様との関係をはぐらかしはしたものの、ご寵愛を受けていることは皆に知られているようでしたから、戸惑いながらも、女中仲間たちと上手く折り合いをつけることができたのでした。女中たちも二人の関係を祝ったといいます。
しかし、そんなある日のことです。女中たちは雑務の休憩のため、茶の席に一同揃いました。茶の席は饅頭が並べられ、お茶が用意されていました。それはいつもと同じ光景ではあったため、女中たちは談笑しながらお茶を嗜みました。
しかし、そこで事態は一変するのです。
茶事の終わり頃、女中の一人が突然血を吐くと、咳き込む間もなく倒れ、もがき苦しむのを最初に、その場にいた女中たちが次から次へと倒れていくではありませんか。水を求めて卓の上のお茶に手を伸ばすも、力尽きて椀を落とし、畳は盛大に血と茶が混じる大惨事。そこに女中たちの嘆くような悲鳴が湧いては消えないままですから、何事かと刑部様がやってくると、そこで目にしたのは、まるで雑魚寝のように所狭しと倒れてうごめく女中の群れと、その中央に佇み慌てる野沢、そして、何とも言い難い不穏な表情で同じように佇む小梅の姿でありました。
「何事か」
「菓子を食べたところ、皆さんが苦しみ出して……」
野沢が言いました。
「菓子?」
「はい。こういったものでございます」
野沢は卓の上にあった包みを刑部様に差し出しました。刑部様は非常に混乱しているようでした。
「私が買ったものではないな。誰かに買わせたものでもない。誰のものだ?」
野沢は言い渋りましたが、ちらりと一瞬小梅を見てから、ゆっくりと答えます。
「小梅さんが、私にくれたものなのです」
「まことか小梅」
「…………」
小梅はしばらく拳を握りしめていましたが、刑部様と野沢の視線に、ようやく拳の力を解くと、薄らと不気味に息を吐き、それから眉を寄せ、力むような口調で告げました。
「確かにこの菓子は私が野沢に渡したものです」
「菓子は……饅頭か。自分で作ったのか?」
「はい……私が自分で」
小梅は、痛々しい顔で答えます。
「この苦しみ方は尋常ではない。小梅、毒か何かを盛ったのではないか」
「……毒は、入れました」
そこで、一旦場が静まり。
しかし、小梅はすぐに顔を上げました。
「けれど、私がやったのではありません」
■
「ん?」
山田君が、相談主の女の子から受けた話をそこまで話し終えた時、平野さんが首を捻った。
「面白い話だ。面白い話だが……待て待て、その小梅さんは野沢さんに渡した手作り饅頭に毒を入れたと認めたんだよな?」
「認めたそうです」
山田君が返事をする。ちらりと見ると、原稿に着手しようとしていた安語先生も、こちらの話が気になっているようで、手がすっかり止まってしまっていた。それはそうだ。普段は推理小説の犯人の当てあいっこをしているけれど、今度は山田君のクラスメイトの女の子――の祖母の友人? に関することで、その毒殺事件についてである。先生が気にならないはずがない。
「だったら、やったのではありませんなんて、おかしいじゃないか」
「もちろん、話にはまだ続きがあるんですよ」
■
小梅はいつまで経っても自分がやったとは言わなかったようです。いえ、毒を入れたのは認めました。しかし、彼女が自分の罪を認めつつ供述したのは、どうにも不可思議なことばかりだったのです。以下は、取り調べとして小部屋に通された小梅と、話を聴いた同心の会話です。
「これだけ死ぬなんて、有り得ない――」
小梅の話曰く、野沢に祝いとして渡した菓子は、いわゆる贈り物のようなもので、箱の中に紙で包まれた菓子が二十個ほどに小分けされているかたちのものでした。よく年末年始に、親戚同士で贈り物をしあったりしますが、ああいった感じのものです。そして、その中に毒を入れたことも確かに認めました。しかしです。
「なぜ野沢さんを殺そうと?」
「それは……それは、刑部様と野沢の関係に嫉妬したからです」
小梅は、そう答えました。
「嫉妬か……しかし小梅さん、おかしいではありませんか」
同心が言いました。
「小梅さんは、野沢さんだけを殺そうとしたのですよね」
「はい」
「だとしたら、二十個も入った箱包みを差し上げるのは不自然では?」
「菓子を一つだけ渡すのも不自然ですよ。贈り物としては、当然いくつか入った物を渡すに決まっています」
「二十個の饅頭全てに毒を入れていたのですね?」
「だから違うと言っているじゃありませんか! 私は二十のうちのたった一つにしか毒を入れていません」
彼女は、二十個の饅頭のうち、一つにしか毒を入れていないと主張したのです。
「そこがおかしいのです。あなたは野沢さんを殺そうとした。不自然だからと複数の饅頭が入った包みを渡した。しかし、その中の一つにしか毒を入れていないと言う。二十もある饅頭のうちたったひとつしか毒が入っていないなら、それを野沢さんが選び取る確率は極めて低いのではありませんか。そうなると、野沢さんを確実に殺す計画に支障が出てしまう」
「野沢さんが一日一個饅頭を食べたとすれば、必ずそれを選び取る日がいつか来るでしょう。私が饅頭の箱を渡してからそれを選び取る日まで、時間が開けば開くほど、手掛かりは消えるのではないかと考えました。また同時に、全ての菓子に毒が入っていれば、野沢さんが死んだ後、余った菓子を調べられると毒が出てしまい、毒殺であると発覚してしまいます。野沢さんがたったひとつの毒入り饅頭を食べて死ねば、残された菓子には毒が入っていないので、毒殺だとはわからないことになります。野沢さんが病気で亡くなったのではないかと、そう思われるように仕組んだのです」
「饅頭は、一口で食べられる大きさだったのか」
「そうです。だからそれを野沢さんが食べ切った後に毒が回りはじめるものであれば、例えば食べている途中の菓子を、苦しんだために床に落として、それが証拠となるようなことにはならないと考えたのです。『斑猫の大毒』による死は、お医者様にも判別が難しく、一見病気のようにしか見えないとも聞きましたから。そういう毒を選び、そういう毒を菓子に一つだけしたためました。しかし、そうして渡した饅頭を、野沢さんが振る舞うとおっしゃった時には驚いたものです」
「それで、どうしたんです。あなたも野沢さんが菓子を皆に振る舞った席にいたではないか」
小梅は諦める様子ではありませんでした。
「茶の席にすでに饅頭が並べてあったので、私にもどれが自分の用意した毒入りのものかわかりませんでした。だから私は席にはつきましたが饅頭は食べず、黙っていました。女中の皆さんが食べている光景を、私はただ見つめているだけでした」
同心が補足します。
「なるほど。茶の席では、すでにお茶と饅頭がそれぞれの場所に配置してあった。あなたもどれが自分の用意したものかわからない。しかし、小梅さん自身が毒入り菓子の場所に座ったとしても、食べなければ良い。誰かが食べれば、その女中は亡くなってしまうけれども、小梅さんは犯人だと指摘されないだけというわけですね。その女中が死んでも、残った饅頭からは毒が出ない。饅頭は一口で食べられる大きさだから、運悪く毒入りのものを食べた女中の饅頭も残らない。女中は病死と判定される。あなたはただ黙っていれば、犯人だと思われないと考えた」
「そうです。だからこそ、知らん顔を決め込んでいたのですが……あのようなことになるとは」
「毒はたった一つだけ入れたと言うのは本当ですか」
「本当です。私は野沢を殺そうとしました。それは認めます。しかし、女中が全員死んでしまうような仕込みなどまったくしておりません。私が用意した手作りの二十個の饅頭、その一つにしか私は毒を入れていないのです」
「では――では、なぜ全ての饅頭に毒が入っていたのです?」